うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね茶会と、【自我はまさにその本質からして主体なのであり、どのようにして対象に変えられましょうか?ところが疑いもなくそれは可能なのです。】


 しばらく、雨が続きそうですね.....。気分が沈みそうですが、お天気に負けじと(笑)
今日の日中は、うたたね茶会を開かせて頂きました。
 皆さん、おまんじゅうが出たら直ぐに口の中に.....。お薄を点てたらまたすぐに.....。ということで(笑)
じっくり味わって下さった、かおちゃんしか写真が撮れませんでした!


 体調不良で、キャンセルになった方もおられたので、職員が今日は沢山いましたので、職員さんも楽しませて頂きました。
山田さんは、今日はお料理と洗濯物を乾燥させたりと、大忙しでしたが、ちょっと休んで頂き、ご自身の分を点てて頂きました。
 毎朝、お薄を点てられているとのことで、丁寧に点てておられました!
お風呂や、沢山話をしていたら、あっという間に一日が過ぎました。
 おっちゃんは、学齢児さんの入浴介助があるので、直ぐに渥美に向かいました。



 本は、早めに出て、ファミマで読んだり、学齢児さんのバスを待つ間に読みましたが、フライングで、ロゼンフェルドの章を抜かしているのを、5ページくらい読んで気が付きました(笑)しかし、分かり易く、本当に大事な事が書かれていたので、アップさせて頂きます。
 ロゼンフェルドに戻りましたが、こちらを先に読んでも別に良かったかも(笑)です。
フロイトは、やっぱり(当たり前かw)凄かったんだと改めて思った章です。フロイトのみならず、クラインも出て来ますが、本当に勉強になりました。
 フロイトのこの辺を読んで、批判をしているのでしょうか?中井久夫先生が、二宮尊徳先生が、働くときはきちんと働き、遊ぶときには思いっきり遊んでいたのを知った上で、尊徳先生を語っているのか?と疑問を投げかけていたことを思い出しました。


4.自己愛構造体、投影同一化とアイデンティティフィケート形成 
レスリー・ソーン
〜1933年の第31講として掲載されている“心的人格の解明”のなかで、『スタンダード・エディション』の編集者は、その講義の大部分が、『自我とエス』の少なくとも4つの章をもとにしていることに注目している。このことにもかかわらず、フロイトは、講義は自分の素材に対しての聴講者のためらいと警戒の反応をさらに引き起こすだろうと予言している。フロイトは1932年の夏に書いた序文のなかで、これは想像上の講義にすぎないとし、以前の叙述を批判的に修正するとしている。しかし、その講義では、ほとんど軽快な音楽のように、次のように述べている。



 「われわれは自我を、まさにわれわれ自身の自我を探究の素材にしたいのです。しかし、そんなことができるのでしょうか?とどのつまり、自我はまさにその本質からして主体なのであり、どのようにして対象に変えられましょうか?ところが疑いもなくそれは可能なのです。自我は自分自身を対象として受け止めることができ、他の対象のように扱えますし、自分自身を観察し、批判することができるのです。また、いろいろなことを自分自身に行えるのです。このことにおいて、自我の一部はそれ自身を残りの部分と対立させているのです。そういうわけで、自我を分割することは可能なのです。自我はいくつかのその機能の間で――少なくとも一時的には――自分自身を分割するのです。その後に各部分は再び統合されます。このことは決して目新しいことではなく、おそらく、一般的に知られていることを特に強調しただけなのです。また一方では、われわれは、病理学は物事をより拡大したりきめを荒くすることによって、そうしなければわれわれの目にとまらないであろう正常な状態にわれわれの注意を引き寄せることができるという見解をよく知っています。病理学は割れ目や亀裂を指摘しますが、正常ではそこには継ぎ目が存在しています。水晶を床に投げれば、それは壊れます。けれども、でたらめなかけらになるのではありません。それは、そのへき開の線に添って破片になります。その境界は、たとえ目に見えなくとも、その水晶の構造によってあらかじめ規定されていたものです。精神病者とは、これと同様な、分割され破壊された構造体なのです。昔の人たちが狂人に抱いた畏敬の念をわれわれでさえ禁じえません。彼らは、外界現実に背を向けてしまっているのですが、他ならぬその理由ゆえに、彼らは内部の心的現実についてより多く知っていて、そうでなければ、われわれには近づきがたいいくつかのことをあらわにしてくれるのです。」(pp,58−9)。〜