うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アレクサンダー・テクニークと、【一次的ナルシシズムにおいては、環境が個人を抱えていて、それと同時に個人は環境について何も知らずにそれと一体になっているのである。】


今日は、休みで、毎月行っているアレキサンダー・テクニークを受けに、名古屋まで行って来ました。
喘息発作の後、首の筋が硬く張っていたので、その改善をお願いしました。
 アレクサンダー・テクニークは、整体やマッサージのように、患部を触るとというのではなく、人間の身体は、ホメオタシスには直には触れていませんが、あるがままの姿勢になれば、自然と元通りになるという(ざっくりしすぎw)理論でやっているので、自分の場合は、首を後ろに圧迫する傾向があるので、頭がい骨と背骨、坐骨までの連続性を意識して、今日はストレッチを先生に見てもらいながらやってみたら、肩と首が45分の間に軟らかくなっていました。その効果は、今でも持続しています。
 京都時代から、肩と首のこりが酷く(まあ、一日20時間近く仕事をしていましたので......)、整体や、マッサージ、鍼灸をしても、楽になるのはその時だけでした。まあ、教えをすっかり忘れた頃には、元通りですが、それももう少し意識できるようになれば、本当に楽になるのかもしれません。今回で34回目と先生が仰っていました。
 京都から来られているので、自宅近くだった北野天満宮の話に、今日はなりました。


 名古屋の桜も、地元の桜も、この暖かさで大分膨らんでいましたし、自宅の牡丹も展葉していました!
しかし、明日の雨からまた寒くなりそうですね......。


 電車の中で、ウィニコットを読み終えました。最後の方にも、沢山ヒントになる箇所がありました。
明日からは、ケースメントの『あやまちから学ぶ』に入ります。ケースメントの本は、二冊目です。
まえは『患者から学ぶ』だったと思います(笑)この本も勉強になったので、『あやまちから学ぶ』も勉強になると思います。

『換言すれば、精神病とは健康と密接な関係にあり、そこでは数え切れないほどの環境の失敗状況が凍結されているが、それらは日常生活におけるさまざまな癒しの現象、すなわち友達付き合い。身体の病気の際の看護、詩、などなどによって手を差しのべられ、解凍されるのである。』は、この箇所の本筋ではありませんが、知的や精神に障がいをお持ちの方々にも当てはまるやり方と思われます。
 この本は、ウィニコットの論文集なので、至る所に母親的療育・ほど良い母親などが出て来ますが、それがそれだけ大事なことだからと思っています。
支援者も、ほど良くをいつも考えながら支援をやっていかないといけませんね。
 退行しているというと、悪いイメージしか皆さん持たないようですが、それがその人の今ここでを現わしてくれているので、お互いが願ってもないチャンスだと思います。
退行と遊びは、中々市民権を得る事ができませんが(笑)両方とも無意識(本当の自己)から出ているので、大事なものと思います。みなさん変に教育的や道徳的になっていて、こうあるべきだと、自分ができないことを、利用者さん達に押し付けてはいないでしょうか?仕事とは、ニーズに応えることですよね?

 

 〜別の方針は、自我発達と依存を重視することであり、この場合がわれわれが退行について語る時は、そのまま環境の適応について、その成功と失敗という点から語っているのである。私が特別に明らかにしようとした点の1つは、われわれが先に進むに従って環境への自らの関心をますます深めることのないままで、自我に関して逆に遡ることを心がけたことによって、この主題についてのわれわれの考えが混乱させられていた、ということである。われわれは本能発達の理論を打ち立て、環境はとりあえず除外することに同意はできるが、早期に自我の場合の定式化に関してそうするのはまったく不可能である。私が言いたいのは、常に自我の発達に関するわれわれの考えが最後に行き着くところは一次的ナルシシズムである、ということをわれわれが忘れてはならないということである。一次的ナルシシズムにおいては、環境が個人を抱えていて、それと同時に個人は環境について何も知らずにそれと一体になっているのである。 もし、時間があれば、組織化された退行が、いかにして病的な引きこもりや種々の形の防衛としての分裂splittingsとが同時に時々混同されるのか、を私は指摘したであろう。これらの状態は、それらが防衛組織であるという意味では、退行に関係している。退行を有効なものにするような組織は、次の意味で他の防衛組織とは異なった性質を有している。つまりそれは凍結されていた状況を溶かす新たな機会が訪れるという望みや、環境が、つまり今日の環境が遅ればせながら適切な適応を果たすという機会への望みを伴っているのである。 このことから、それが仮に事実であるならばの話であるが、次の事実が導かれる。つまり、精神病からは患者が自発的な回復を成しうるが、他方精神神経症では自発的な回復はなく、精神分析が真に必要とされる。換言すれば、精神病とは健康と密接な関係にあり、そこでは数え切れないほどの環境の失敗状況が凍結されているが、それらは日常生活におけるさまざまな癒しの現象、すなわち友達付き合い。身体の病気の際の看護、詩、などなどによって手を差しのべられ、解凍されるのである。 文献の中では、ようやく最近になって依存への退行が、臨床記述における適切な位置を得るようになったものと私には思える。この理由というのは、おそらくこうであるにちがいない。つまり、個人の精神−身体や精神発達についてのわれわれの理解において、環境の演じる役割を検証したり許容したりすることができるまでにわれわれ自身が十分強力なものとなったと、われわれがつい最近になってようやく感じているからであるにちがいない。〜


〜ここで私は、フロイトの仕事に直接向かってみたい。そして、フロイトの仕事における2つの側面について、少し人為的な区分を行いたい。論理的には催眠を用いるべき臨床状況から、フロイト精神分析的方法を発展させていたのを、われわれは知っている。 フロイトが彼の症例を選ぶ中で行ったことに、目を向けてみよう。精神病院内外のすべての精神障害者を含む、精神科的な患者の全体の集合から、彼は乳児期の最早期に適切に介護された症例、すなわち精神神経症の症例を選んだのである。フロイトが取り組んだ初期の症例について詳しく調べても、このことは確かめられないかもしれないが、われわれが確信できることの1つである。そして最も重要なことは、フロイト自身の早期で個人的な生活史がこのようなものであった、ということである。それで彼は、人生におけるエディプス期や前潜伏期に、全体的人間whole human beingとして到達し、全体的な人間たちと出会って、対人関係に従事する用意があったのである。彼自身の幼児期体験はほど良いものであったため、自己分析において彼は、早期の母親的養育の状況を当然のものとしている。そして私が主張しているのは、それが彼の仕事の設定settingを提案するところに現れていたということだが、彼自身は自分のしていることにほとんど気づいていなかった。フロイトは、自分自身を独立した全体的人間として分析することができたし、対人関係にまつわる不安に関心を持った。もちろん後になって、彼は幼児期を理論的に検討し、本能発達の前性器期を仮定した。さらに進んで彼と他の人びとは詳細を解明し、個人の歴史をどんどん遡っていった。前性器期についてのこの仕事が、十分な形で実を結ぶことができなかったのは、それが分析状況を退行する必要のある患者たちの研究に基づいていなかったためである。 ここで私はフロイトの仕事を人為的に2つの部分に分けるとしたら、どのようになるかを明らかにしたいと思う。第1には、徐々に発展を遂げたいという精神分析の技法があり、それは研修生たちが学ぶものであること、患者によって提示される素材は理解され解釈されるべきものとなって。そして第2には、その中でこの作業が遂行されないような設定settingがある。