うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

さわらび文化祭と、【外傷を受けた患者の場合には、今、ここでの転移/逆転移状況での解釈は明らかに有害なようであると考えています。なぜなら、患者の注目と関心の的であろうと絶えず求めている、自己中心的な原初的な対象のふるまいを分析家が繰り返していると患者が体験するからです(Rosen


今日は、さわらび会さんの文化祭で、演奏させて頂きました。
二曲目は、太鼓の方々とのコラボでしたが、リハなしでは難しいですね(笑)誰にギターを合わせたらいいのか?分からくなり、何度も合わせ直しました。
 でも、貴重な体験をさせて頂きました。来年も呼んで頂けるでしょうか?
明日は5日のリハーサルが文化会館の大ホールであります。仕事が終わり次第、機材を持って行きます。


 演奏まで時間があったので、福祉村さんの施設を見せて頂き、お薄を頂けるというので行ってみたら、まーちゃんが先に頂いていました。
まーちゃんは茶道歴十数年です! 同じテーブルに座らせて頂きました。




 本はビオンを読み終えましたが、アップはまだ、総説からです。
色んな理論や概念がありますが、患者さんや利用者さんを中心に考えたら、その方に一番合ったやり方で行うのがよいのでは?と素人ながら思ってしまいます。
 フロイトは彼の患者や自分自身の事があってのその理論だし、他の方々にもそれが言えるのではないでしょうか?


 今晩は、今から給与計算を少しやってから寝ようと思っています。(笑)


 〜再構成、想起、反復はフロイトが最初に注目して以来、重要なものとされてきました。しかしながら、クライン派の分析家の間での現在における過去というトピックへの新たな関心のいくらかは、アクティング・イン、すなわち、分析家が精力を傾けるべき中核的な過程としての“反復”についてのジョセフと彼女の同僚たちの強調からもたらされています。その見通しとは、“反復”の徹底的な分析を通して、忘れられていた生活史上の出来事を思い出すという形によってだけでなく、現在においても無意識なままにある不安や防衛や内的対象関係を意識化するという感じにおいても、“想起”が生じてくるというものです。 ある見解によるなら、このことが必要なことのすべてです。もし連結が過去の実際の出来事とでなされるとするなら、それはすべての場合で患者の投影というフィルターを通してのみ知られるようになりますが、患者はこれらの連結を自分で成し遂げましょう。生活史上の過去と表立って結びつける形での分析家による再構成は、不必要であるとともに誤解を招きやすくもあります。それによって患者はセッションの中での情緒体験からそらされてしまいます。〜
 〜しかしながらスィーガルは、今、ここでの分析家−患者相互交流についての解釈に較べたら、過去についての解釈はどうしてもより知性化されて距離があるとの考えには賛同していません。この点ではロゼンフェルドも彼女に同意しています。彼は、有用な再構成的解釈や観察はそれらが妥当と思えるときにはいつでも導入してよいし、転移分析の不可欠な構成要素であると考えられると言います(Rosenfeld 1987)。 のちの業績においてロゼンフェルドはさらに前進しています。外傷を受けた患者の場合には、今、ここでの転移/逆転移状況での解釈は明らかに有害なようであると考えています。なぜなら、患者の注目と関心の的であろうと絶えず求めている、自己中心的な原初的な対象のふるまいを分析家が繰り返していると患者が体験するからです(Rosenfeld 1986)。少なくとも始めのうちは、分析家は過去の外傷的な出来事をその細かな文脈すべてにおいて、同情的に解明していくことに専心すべきであると考えています。ロゼンフェルドの見解の批判者は、自己中心的な親のふるまいを反復してしまうことの問題は、その親と違ったふるまいをするよりも解釈によって取り扱われるべきであると考えます。さらには、過去の外傷の解明にまったく専心してしまうことは、理想化された分析家と卑小化されている原初的対象とを分割させそうですし、生活史上の過去の外界現実が実際にどうだったと自分は知ることができるとの信念を分析家にもたらしそうであると懸念しています。 このように、技法についての討論のほとんど表立つことのなかった長い歳月ののちに、今日、クライン派分析家の間でのこのような意見の交換によって、さまざまな見解がもっと明確に語られているようです。