うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【子どもの患者は、自分のコミュニケーションを分析家が理解したと感じた場合、その最も耐えがたい感情を持ちこたえ、見つめ、考え、それについて語る分析家をとり入れる。】


今日は、あいにくの雨.....。


 沢山歩ける金曜日でしたが、屋外での散歩は諦め、蔵王山の展望台の階段昇降や、4Fと5Fのフロアーをグルグル回りました。
3Fは、プロジェクションマッピングなどがあるので、薄暗くて、今日のBGMはクリスマスソングメドレーだったので、気分的に落ち着いて、ゆっくり歩くことができました。
が、朝・昼ともきっちり1時間ずつ歩き、合計13,000歩あるきました。ほど良い疲れを感じましたが、おっちゃんだけでしょうか?(笑)


 ポインセチアの販売もしていて、クリスマス気分に花を添えていましたが、展望台のフロアーの床にある、写真の地図とポインセチアが妙な?雰囲気に映ったので、写真にしてみました。(笑)じっと見ていると、だまし絵を見ている様な気持ちになりました。(笑)

 何だかんだで20時前まで現場にいて、帰宅後、ひーひー王子に何度も飛びつかれたので(笑)散歩して、家に入ったら、何故か?(笑)ブライアン・セッツァーを弾きたくなり、記憶にあるフレーズをいくつか弾きました。(笑)コードの使い方が素敵ですね!


 ギターを弾いて、風呂に入ってもまだ、神経が昂ぶっていたので(笑)お薄を点てましたが、和菓子がなく、台所にあった金時豆で頂きました(笑)。
結局、仕事などで、万歩計が19,000歩で、消費カロリーが540くらいになっていました。痩せるでしょうか?(笑)
ジムに行こうかと?悩みましたが、明日も早いので、やめました。早めに寝ます!


 本は、今日も早めに出てファミマで読みました。もうすぐこの本も読み終えますが、最後の最後まで、勉強をさせて頂き、現場での支援に活かせるようなことを沢山吸収できました。まだまだ理解が浅いですが、もう少しクライン派の本を読ませて頂いた後で、この3冊に戻ってこようかと思っています。本当に良い本です。



5,子どもの分析でのコミュニケーションとコンテイニング 終結可能性を目指して 
ターク・エスカリネン・デ・フォルフ

 『終わりある分析と終わりなき分析』のなかでフロイト(1937)は自我と欲動のバランスに思索thinkingに焦点をあて、分析過程で起こる変化に対して生じてくる種々の障害物を論じている。彼は自我を弱体化させる様々な自我の改変、そしてその結果として生じる内界および外界の危険や問題点を取り扱うことの困難さについて述べている。そして、自我の防衛機制が損なわれていく過程を鋭く描写している(p,237):「自我の防衛機制は、内的な知覚を改竄し、われわれにただ欠陥だらけの、歪曲されたイド像をもたらすにすぎないと責められる。そうであるのでまた自我はイドとの関係においては、それが持つ種々の制約によって、麻痺させられ、その過ちによって見えなくさせられているわけである。このような自我の麻痺や欺瞞が精神現象に及ぼす影響というものは、あたかも、せっかくハイキングに行きながらその地方のことを知らなかったり、歩く元気がないというものにならざるを得ない」。 分析での私たちの仕事は、自我が知覚して考え、語るのを助けるよう、そうすることで外界と内界ともにコミュニケーションが再確立するよう、「自我機能が最も円滑に営まれやすいような心理的諸条件を確保する(p,250)」ことである。それが自我を強化し、人生で通常に出会う逆境に対処できるようにする。私たちが、強い自我、そして成功のうちに分析を終了する可能性について考える際、その個人的に自我の一部となり続ける自身の足で立ち、自分の問題を包み込み、取り扱えるようになるような信頼感できる対象の内在化によってなされる内的な安全さという点からそれを考えていく。〜

〜ビオンはクラインの考えから、投影同一化を通してのコミュニケーションの早期の蒼古型について述べた。彼は、子どもが苦しい未知の感情を母親やそれが乳房の中に投影する過程を描いた。子どもから投影された感情を母親がもっとなじみのある、既知の耐えることのできる型に変えて子どもに戻すなら、それがうまく処理されたということになる」(Klein 1946 :Bion 1962)。 どんなに理由にせよ母親が子どもの感情を包み込み、変えることができない場合、子どもはその感情をよりいっそう耐え難く恐ろしいものとして体験する。その感情に直面できないと感じ、再び投影することで一切で接触を断とうと懸命になる。そうすることで個人は内省できない能力や他者を知覚する能力をともに破壊してしまう。その他者はこれらは投影によって汚され、歪曲されている。言い換えれば、フロイトが不適切な自我の機能を、知らない場所――自分自身が心――を歩いていることに例えたものにあたるだろう。 この論文で私はコミュニケーションの質とコンテイニングとの関係、そしてこれらがさらなる統合の方向に向かうか、あるいは分割や退行が増す防衛に向かうか、という変化が引き起こされる過程を描いてみたい。子どもの患者は、自分のコミュニケーションを分析家が理解したと感じた場合、その最も耐えがたい感情を持ちこたえ、見つめ、考え、それについて語る分析家をとり入れる。反対の状況では、子どもは自分の不安を理解されなかったと感じたとき、その結果として、理解し、コミュニケートし、感じる自分の能力を断ち切り、破壊してしまう。




要約
 筆者は分析関係の中でのある種のコミュニケーションとコンテイニングとの関係、そして子どもの患者の自我がより統合される方向に向かうあるいは分割や退行が増す方向へと向かう変化をそれらがどのようにしてもたらすのかについて検討した、これらの推移を、7歳の少女アンの分析からの素材を通して描いてみた。分析家がアンの不安を理解しなかったときと彼女は彼女の知覚し、感じ、コミュニケートする能力を断ち切った。それとは対照的に、彼女が分析家を自分のニードや怒りに耐え、それを理解し、自分に伝えてくれるアイテムであると体験したとき、それが彼女に包み込まれた感覚を与える。分析家の解釈だけでなく、その知覚し、直感しない考える機能、いわばそういった機能を備えた対象を統合入れることを可能にした。感情を引き起こすあらゆる場面で繰り返し包み込まれ、理解され、断ち切ったを繰り返すことを通じて、この対象は子ども自身の自我の一部となる。それは次には、子どもが内的世界と同様に、外界でもコミュニケートできる能力を高める。