うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【自我のリビドー備給は観察可能だからにすぎず、そしてそれ以外は、ありうることか間違いかはとにかく、すべて頭の中だけの想像で、観察可能な流出事実でないからである。】


 今日は、日勤の職員さんが、熱発で休みになったので、親分は休みでしたが、散歩に行きたい一心で(笑)散歩に行きました。
滝頭公園に行ったそうで、写メが送られてきました。おっちゃんも夜勤ですが、午前中だけのはずが、商工さんの搬出の日だと、先程親分が思い出したので、事務仕事をほったらかして(笑)慌てて現場に戻りました(笑)
 忙しくなる日は、とことん忙しいですね.......。




 本は、早めに出てファミマで読みましたが、アップは貯金の切り崩しです(笑)

 バリント先生は、フロイトを頭ごなしに批判するのではなく、きちんと臨床観察に基づいて、そこから検証しているので、信用できますね!
中井久夫先生が、二宮尊徳のことをよく知らないのに、勤勉の象徴のように言う人は笑止ものだ!と何かの本に書いていました。自分も批判するときは、きちんと現場観察をもとにしていきたいと思います。
 いつも思うことですが、フロイトは、彼の患者さんとの臨床の中での関係性の理論で、皆、それぞれ違います。フロイトや先人が残してくれた遺産を自分の臨床・現場にどう利用していくか、いけるかが、今を生きている人間への使命なので、フロイトを頭ごなしに、古いだとか、間違っているとかいうのは、何か違うように思えます。こんなに沢山のヒントを残してくれているにも関わらず、ですね......。

 バタバタしてアップし忘れそうなので(笑)早めにしました。




第二部 著しいナルシシズムと一次愛
第八章 前章の三理論の内包する矛盾
 前章に挙げた三理論とは一次対象愛、一次自体愛、一次ナルシシズムであるが、この三理論は相互に矛盾している、しかも私を知る限り、フロイトにはこの矛盾を論じた文章がない。事実は正反対で、一九二三年になってもまだフロイトがこの三理論を同時に唱えていた証拠がある、それはちゃんと活字になっている。 この厄介なものを論じる前に、精神分析学が、フロイトを忠実に、ナルシシズムなる語をもって、類似性はあるが同一とはとてもいえない二状態を指していることを念頭におきたい。第一の状態とは、フロイト自身のことばでいえば一次的――絶対ナルシシズムで、これは仮説であり、臨床観察所見ではない。われわれはリビドー全体がはじめは自我――あるいはエス――に貯蔵された状態にあるところ仮定するだけである。第二の状態とは、正しくは二次ナルシシズムといわなくてはならぬがふつう単にナルシシズムといいならわしているもので、臨床観察可能である。この語は、以前外的対象に備給されていたリビドーの一部の圧倒的大部分が外的対象から撤去されて自我に備給されるようになった状態を指す語である。まちがってはならないのは、自我に、であってエスに備給されるようになるのではないことだ。
 〜この新語体系は、それにしたがって枚挙したナルシシズム適用備給の新形式が、どれも、果たして一次ナルシシズムだろうか、という臨床的疑問を晴らさない。まず超自我の由来する基質はもちろん、超自我自体もその主要部は一部、個体発生に先行して系統発生的に前形成されているとでも仮定しない限り、超自我へのリビドー備給は必然的に二次的たらざるを得ない、すなわち、まず対象への備給があって、この対象への備給が、フロイトが『自我とエス』にいうごとく、個体発生の過程でとり込まれるところに超自我への備給の成立があると考えなければならない、また、自我がある種の成熟促進過程によって発達する、というフロイトの考えを承認するならば、自我へのリビドー備給も、大体自我発達につれて発達するとせざるを得ない。すなわち自我へのリビドー備給は一次的であり得ない。残るは、エスへのナルシシズムがひょっとしたら一次的な状態ではなかろうかという問題である。ジェイムズ・ストレイチのようにエスがリビドー全体の源泉――さらには貯水池――であると想像することはやさしいが、エスがリビドーの原初対象とはそれはしにくい。リビドーが今日までいつも一種の流れのイメージがあてはまるのは二次ナルシシズムといわれるものだけではあるまいかがまた、流出口のナルシシズム源泉は緊張感増大に陥りがちで、フロイトが「発病しないためには最後の手段として、愛することを始めなければならない。もし、欲求の発現を抑えられて、その結果、愛することができなくなればわれわれは発病せざるを得ない。」(全集、一○巻、一五ページ、英訳標準版、一四巻、八五ページ)と書いた彼の脳裏にあったのは、たぶんそういうことだったらろう。〜


 ハルトマンが手きびしく批判しても、フロイトはやはり軽率な書き方をする人ではない。フロイトナルシシズムを語れば必ず自我備給問題に立ち戻るのは何か深いわけがあるはずだ。だから、エドワルド・ワイスEduardo Weissが、フロイトが生きていたらハルトマン、クリス、レーウェスタインの新提案に賛同しただろうか、とてもそう思えないと疑念を強く言明するのに私問題点賛成である。フロイトが、強迫症的理論家を目指さなかったのを認めざるを得ないが、その代わりフロイトは断然非の打ち所のない臨床観察家で、フロイトの臨床記述をくわしく検討すればするほどその人と深遠性に打たれる。私は今まで絶えずこの思いを味わってきた。私はいいたい、一次ナルシシズム理論を内在する矛盾の原因が軽率な用語法にあるとか、明晰に観察し正確に定義する能力は欠如にあるとは決して思えない。原因はフロイトが臨床観察で得たものを洒落た理論をつくる目的のために放棄したり変造するのは嫌だったからではあるまいか。なぜフロイトナルシシズムに触れるときに必ず自我のリビドー備給の問題に立ち還って考えたのか、その理由は実は単純で、自我のリビドー備給は観察可能だからにすぎず、そしてそれ以外は、ありうることか間違いかはとにかく、すべて頭の中だけの想像で、観察可能な流出事実でないからである。