うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

涼しくなりました!と、田原市文化祭の抽選と、【成人の自己の排除された蒼古的部分が活動すると、より大人の自我を乗っ取り麻痺させ、その結果、危機と折り合う成人の様式はもはや使えなくなる。】


 さすがに10月も中旬なので、涼しくなりました。
温かいお茶が恋しくなりますね!

 今日は、携帯が壊れてauショップに行ったのはいいのですが、午前中がそれでつぶれてしまい、慌てて文化祭の順番の抽選会に行きました。親分がくじを引いたら、何と1番! 皆さん11時くらいが一番いいと言われていたので、10時30分はベストですね!
機材も最初からセッティングできるので、本当に助かります!
 太鼓をしている、女性職員さんが、自分たちが今回出ないので、一枠空いたので、声をかけてくれたので、文化会館のホールで演奏できることになりました。皆さん喜ぶでしょうね!ドラムの大森君が予定があったので参加できないのが残念ですが、小さいドラムマシーンを買ってもらい、アンプは腐るほど(笑)あるので、それに繋げようと思っています。
 ただ、予算の関係で、マイクが4本しかなく、共有になるのが少々不安ですが、本番に強い皆さんなので、大丈夫と思われます。
リハーサルが前日の夜にあるので、それまでにギターとドラムマシーン(まだ購入してませんがw)のバランスを、音楽練習室を借りてやっておきたいところです。本職のPAの方がつくので、音のバランスをきちんとみてもらえるので助かります。







 本は、朝に頑張って?読み、この章を終え、新しい章に入りましたが、メルツァーでした.......。
本当に、どこを切り取ってよいのか?分からないくらい、大切な文章が並んでいます。



しかしながら、非自己—空間に押し込まれたこれら自己—空間の部分は、それでも幾分かは自己—空間の一部とみなされており、内と外を置き換えることによって、すなわちとり入れと投影によって、自己—空間と非自己—空間の間に特殊な空間が形成される。このつながりは、想起の対象関係に、所有とか、とり入れおよび投影による同一化の過程を根本とする対象群間の同一化といった性質をもたらす。この過程は、欲求不満やコミュニケーションの目的のための対象群の置き換えに関わっているのであれば、決して異常なことではない。しかしながら、その過程が持続したり歪んだりすることが、シゾイド的体験様式の典型的な特色の多くをもたらしている。それは、自分自身の一部が対象の中にあるのだから、対象の中で生きているという、感じをもたらす。それは、対象をコントロールしたままにしておきたいという、不吉な運命の切迫感をもたらす。そしてそれは、投影したり置き換えられたりした自己の部分が、貪欲で羨望的で破壊的な衝動を持つと思われたならば、切迫感を生み出す結果となるが、この過程によってその他多くのジゾイド的特徴をも説明しうるのである。〜
〜患者が、脅かしてくる対象と彼女が感じているものと触れあっている空間から自分自身を立ちのかせかったことは明らかである。彼女はその部屋から出ていきたかった。しかし、私たちは、恐怖症者がある種の状況、たとえば人前で食べるといったことを回避することも知っている。彼らはレストランや映画館や店に行こうとしなかったりする。彼らは自らの外的空間を制限し、ついには、家から外から出られなくなる。彼らが退く最終的な空間が無意識のなかの何に相対しているのかを理解することは、たいへん重要である。そういう場合、外界もしくは外的空間は、投影同一化によって母親の内的空間に同一化された主体自身の身体もしくは内的空間に変形されており、そこで、部屋に入ったり部屋から出たりするということは、その部屋というものが究極的に表している、母親の身体から出るということなのである。出生体験という原初的な刷り込まれた状態が、この早期の体験の変形や表象のヒエラルキーのなかに残っている。心に刻み込まれるのは、必ずしもオリジナルな出生体験とは限らず、前述した有袋動物の空間のような、空間構築のヒエラルキーに属する類似の別な原初的体験であってよい。叫び声、尿、ふん便、精液、唾液、吐物といった何かが身体から出ていくとき、“出ていく”という系統に火がつき、それに附随した情動が生み出される。そこに内蔵された機制は、主体が自分の身体の内容物に同一化したり、彼の身体を母親の身体に同一化するといった同一化である。 私が述べてきたように、その原初的な情動体験、すなわちその感情は、自己—空間および非自己—空間の構造化において優位であり続ける。自己—空間から非自己—空間への、またはその逆の、主体自身を含めたあらゆる対象群の移動は、原初的な様式で体験される。ある環境における空間は、人格の残りの部分からは分割排除されていて、この空間体験様式が存続している人格の一部においてかつて体験されたものとして体験される。その状態に関連した恐怖や身体的苦痛や感覚は、自我がほとんど身体自我であるときの体験の存続以外のなにものでもない。成人の自己の排除された蒼古的部分が活動すると、より大人の自我を乗っ取り麻痺させ、その結果、危機と折り合う成人の様式はもはや使えなくなる。 しかしながら、私は精神分裂病者との間で基本的にいつも似た様な体験を重ねてきて、その根底にある基礎構造に気がついた。それはたとえば、彼らは自分が中に埋もれて消えてしまうのではないかと恐れてカウチに横になれなかったりするのだが、突然それと同じ恐怖を母親に関して表明したりすることや、たとえそこに格子がついていても、彼らはドアや窓のそばでなければ私と部屋にいられなかったりすることなどである。ある患者は、飛行機で10,000フィートの高さを飛んでいても、パニックにならないためにドアのそばにいなければならなかったし。そして、もちろん、私が述べてきたように、それは母親であるばかりではなく、原初的情緒体験に満ちた母親の内的空間を置き換えるために構築された早期の空間構造でもある。そうした空間は対象群やその置換物で構築されているので、それらの空間における対象群は、満足を与えるものであったりそうでなかったり、迫害するものであったり保護するものであったり、良いものであったり悪いものであったりする。〜