うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむの湯と、上手く写せないと、【自分の空間(すなわち内的空間やパーソナルな空間)に対象を常には保持しえないという欲求不満によって、対象を自分の所有物としたいという願望は強まる。この願望の成長とそうした対象群を確保したいニードは、それがあまりに強くなれば、貪欲さとなってくる。】


 今日は休日でしたが、午前中少しだけ事務仕事をやって、ジムで軽く体を動かしてきてから、渥美に走りました。
入浴の準備等していたら、あっという間にお迎えの時間が来ました。
 日が暮れるのが早くなったので、掃除や洗濯をしていると、真っ暗にまってしまいます。



 昨日、来てくれた、ウェブデザイナーさんとの会話の中で、すろーじゃむのお風呂の大きさを、どうやったら上手く写せるのか?ご主人が競輪や競馬、競艇などの写真を撮るのを仕事にされている方なので、聞いてみたら、アイレベルを下げて撮ればよいとのことでしたので、少し早めに行って明るいうちに撮ってみましたが、やっぱり上手くいきませんでした........。最後は寝転んで(笑)撮ってみましたが、安物の携帯では無理なのでしょうか?

 横向きの写真の方が絶対いいとのこと(本当の写真家の写真は横しかないと京都にいた時に写真家の方が言っていましたが....)で機械浴用の椅子を入れたら、椅子の大きさばかりが強調されて、お風呂が余計に小さく見えます....。

 おきて破りの縦にしてみましたが(笑)余計に椅子が大きく見えてしまいました......。
 次回お会いできるときには、すろーじゃむまで一緒に来て頂き、写して頂こうと、それしかないなと思いました。
大人が3人余裕で入れるお風呂なんですが......。

 ホームページなどの件を色々やって頂いた後、食事をご一緒させていただき、ちょっとだけ贅沢をさせていただきましたが、本当に美味しかったです。ワインがあれば尚、良かったですが、その後、去年亡くなられた理事をして下さっていた、平野さん宅に3人でお参りさせていただきに行く予定でしたので、自粛させて頂きました。彼女は、幼少期から平野さんにお世話になっていたらしく、ご主人と話が弾んでいました。彼女は最初、亡くなられた実感が出ないと言っていましたが、仏壇の周囲にある沢山の写真を見ていたら、感極まってしまっていました。自分の目に涙が浮かぶと、普段は抑うつが心配になるのですが、昨夜の涙は、そんなに難しいものではなく、ただ単に平野さんが、残してくれた物(うたたに)の大きさを、思い出してしまったからだと思います。
 彼女と引き合わせてくれたのも、平野さんでした。これでPCの事は、専門家に任せる事ができるので、一安心です。




 本も少しだけ読みましたが、アップは以前読んだ箇所です。
学齢児さんのバスを待つ間に、この章を読み終えようと頑張ってみましたが、深く読んでしまい、今日も無理でした(笑)明日、頑張ってみます!
どこをとっても、重要なことが書いていて、これぞクライン派だと思いました。





要約すれば、ピアジェによると行為はまさに始まりにおいては生のあらゆる現れの源泉なのである。それは思考に先行し、認知や感覚に制御するようになるが、思考の前駆体が生み出されるのは、行為のシェーマの内在化が引き続いておこる、対象上に主体の行為を結びつける過程によってなのである。こうして、自分の親指をもっていった幼児は、次に自分の親指ではなく別の対象へと行為を広げ、さらに棒かなにかを使って、手に入れて自分の口などへ持っていく対象に届くよう自分の腕の届く範囲を広げる。 構造理論自体から離れて、フロイトの著述でそうした思索様式からなる研究がなされてきたのかどうか、私にはわからない。しかし、たとえば「ねずみ男」において、フロイトが心的構造へ常に言及しているのは興味深い。実際、第2部は「強迫構造の一般的な特徴」(Freud 1909)、という題が付けられている。彼は、「強迫構造、あらゆる心的行為に対応づけできる」と述べている(p.221)。彼は次のように言っている。



 「この障害(強迫神経症)においては、抑圧は健忘によってではなく感情の退却によって引き起こされた因果的結合の分断に影響されている。これらの抑圧を受けた結合は、ある種の隠れた形で(これについて私は別のところで精神内界がおける認知と比較したことがある)持続しているようであり、それらは投影の過程によって外界へと転移されるのであるが、そこではそれらは意識からは消え去ったものの証拠を現している」。


 これはいかなる構造主義者にも劣らぬ、精神構造に関するすぐれた定義である。 それゆえ対象関係派の精神分析家によれば、成人の行動には、行動のさまざまな面を支配する、正常であったり病的であったりする原初的な対象関係もしくはシェーマが存在していることになる。こうした原初的な内在化された対象関係のなかには、統合されないままで自律的に機能するものがあろう。部分対象心理学あるいは、部分対象、部分主体、部分状態等々を心理学は対象関係の発生的発達の側面に関する研究と関連している。


まず、満足を求める願望として表出される幼児のニードからはじめると、幼児は自分の内部から発生する空間の一部、すなわち、自己の前駆体と彼が生存し成長するのに必要な満足させてくれる対象群とを作りたがっていることは間違いない。自分の空間(すなわち内的空間やパーソナルな空間)に対象を常には保持しえないという欲求不満によって、対象を自分の所有物としたいという願望は強まる。この願望の成長とそうした対象群を確保したいニードは、それがあまりに強くなれば、貪欲さとなってくる。望んでいる満足させてくれる対象群を所有できないことから生じる欲求不満や怒りや不安は、望んでいる別の世界からそれを奪いたいという願望へと導いてゆく。というのも、その対象群を含んでいる別の空間は、いまやなんの痛みも喜びもない状態、すなわち、幼児がかつて体験した状態になっているからである。その願望は対象を所有したいというだけではなく、彼が自分自身から奪われたように他の空間から奪い取りたいというものである。これが羨望である。