うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

お茶の花と、【抑うつでは、身体や四肢の動作は次第に緩慢となり、ついには抑うつ性昏迷の状態にまでいたるし、究極の動かない状態は自殺において認められる。躁では逆のことが起こる。あらゆる動作の速さが増し、患者は一カ所にじっとしていられない。この両方の状態では、時間経過の感覚は大きく異なっている。】


 朝のひーひー王子との散歩で、少し前から咲き始めていた、お茶の花を頂いてきました。
残念ながら、炉開きは枯れてしまいました......。
 炉開きにはまだ早いですが、大分涼しくなったので、そろそろお薄を始めたいなと思っています。






 今日は夜勤です。もうすぐ出勤時間ですが、朝、歯科医院での待ち時間で本を読みました。
アップはJ・ヘンリ・レイの箇所の最後の部分です。本当に勉強になり、何度も読み返したい箇所でした。
 自分にも当てはまる事でもあったのが、一番の要因でしょうか(笑)。季節の変わり目は、心身ともにきついですね!




たとえば、子どもか大人か、男か女かといったアイデンティティの問題が、対象群との一過性の同一化という上述の根拠に基づいて理解できることは明らかである。要求がましさ、支配しようとする衝動、所有欲といったものはすべて、自己−空間の一部を非自己−空間に押し入れることやその逆が分離を受け入れきれていないとの事実と明白に関連しており、そこで、自己の部分を破滅的に失うのを避けるためにそうした行動を命令している。自己の喪失を避けるために、対象群は敬遠されなければならず、逆もそうなのである。

このようになってシゾイドの人は、痛み、不安、抑うつ等々を避けるために、自分自身を部分に分割し、それらを投影して、それらの存在を否認する。すると即座に、彼は逆の感情を体験する。それは喪失の恐怖や断片化の恐怖であり、彼は接触を取り戻そうなどと試みる。こうして悪循環が続いていく。 内的空間とパーソナルな空間とは同じものではない。パーソナルな空間の対象群は、普遍的空間と内的空間との過渡的なものである。〜
〜しかし、シゾイドの移動と運動とは惨憺たるものでありうる。それは彼の一部分を引き離し、断片化したり空虚にしたりさまよったままにしてしまうだろうし、彼の対象群についても同様なことが起こりうるからである。それゆえ、内的空間に父親を保っていた少女の症例のように、運動はとてもゆっくりしたものであるか、静止の状態が生じることになろう。運動は分離や喪失を引き起こすし、それが速く起こると破滅をもたらす。硬さ、動かなさ、不感症、インポテンツといったものはすべてこうした可能性に対する防衛である。〜
抑うつでは、身体や四肢の動作は次第に緩慢となり、ついには抑うつ性昏迷の状態にまでいたるし、究極の動かない状態は自殺において認められる。躁では逆のことが起こる。あらゆる動作の速さが増し、患者は一カ所にじっとしていられない。この両方の状態では、時間経過の感覚は大きく異なっている。 ピアジェは次のように述べている。「心理的時間は、なされた作業と活動性(力や活動速度)との結合である、すなわち、時間は可塑的なものである。それは活動の減速に伴って伸びたり、活動の加速によって縮まったりする……また、時間は、その始まりのときから、簡単に言えば主体の活動性に応じた期待、努力、満足といった態度に本来備わっている心理的長さの印象を伴っている」。活動性が麻痺し、対象との活動が空虚であったシゾイド患者は、まったく異常な風にしか関係における長さを体験できない。 ここで対象の局在性と、主体の永続性という最も重要な観念との関係に戻る必要性がある。ピアジェはしばしば簡単な実験を試みているが、生後半年の精神生活において、幼児がある対象をつかみかかっているときに、その対象がハンカチで隠されたとしたら、手を伸ばすのを止めてしまうと述べている。後の段階であれば、赤ん坊はたった今隠されたAという芭蕉にその対象を見つけるために、ハンカチを持ち上げようとする。しかし、ピアジェは次に、Aという場所に置かれた対象が、その子の目の前でBという場所に移されても、赤ん坊は前にうまく見つけることができたAの場所をたびたび探すのを観察している。赤ん坊がためらいなく移動された場所に対象を探すようになるのは、生後1年の最後の頃になってである。これより前では、彼は移動の経過を無視し、対象への彼自身の活動は固定されている。ピアジェが言うには、このように対象の永続性は、空間における局在性と強く結びつけられている。 ここでピアジェにおける対象の概念と精神分析でのリビドー的対象とを区別することが決定的に重要である。ピアジェは感覚運動段階の終わる時点、すなわち生後約18ヵ月の時点で、永続的対象としての対象について記述している。主体自体が対象群のひとつの対象であるところでは、この概念はあらゆる対象群に当てはまるのだが、ある対象が幼児にとって意味深い唯一のものとなるというリビドー備給の問題はまったく考慮されていない。リビドー的対象は感覚運動的対象が完成するずっと前に意味を持っている。ゾイドの自己や対象の歪みを理解することに決定的に関わってくるのが、ピアジェの記述した対象形成の段階なのであり、それは特に、防衛性分裂機制において同一化の目的のために、物質界の対象群を特殊に使うためにそうなのである。
 人は、空間における他の身体のイメージと同じよう自分の身体のイメージを構築したり、自分のアイデンティティについての永続感を徐々に達成したりもせねばならないので、同様な考察がここでも適用できる。ブルースト Marcel Proustが『スワンの家の方へ』でスワンに語らせたように、人が夜に暗闇の中で目覚めて、時間やどこにいるのかがわからないとしたら、人は自分がだれなのかわからないのである。ピアジェが愛らしい簡単な実験で、物のアイデンティティの概念は特定の段階で生じ、アイデンティティの概念はたとえば量保存の概念の前に生じると実証したことは非常に興味深い。こうして同じ対象、たとえば、水が、違った形の容器に入れられて形が違って見えるようにした実験が示すように、子どもがそれが同じ水だと言えるようになるまでには時間がかかるのである。細長いチューブに入った水が他の容器に入った水より量が多いと信じると言った空間的つながりを子どもが捨て去るには、さらに時間がかかる。広さ高さといった、2つの独立した変数を同時に考えられるようになってはじめて、子どもは正しい答えにたどりつく。 私たちはいまや、シゾイド患者が不安さ、アイデンティティの混乱、身体イメージの障害、非永続性の恐怖等々を感じるときに用いる精神的操作の組織化の水準を理解しはじめている。というのも、彼はさまざまな位置や状況で自分自身を違った風に体験しているはずだからである。 存在や永続性が密接に結びついている空間の外に存在していることの困難さは、シゾイドにとってはたいへんなことである。〜