うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

炉開きと、【子どもは‘理解されること’が必要不可欠なのです。】


 台風に備えて、自分用に購入した『炉開き(椿)』を玄関に置きました。
田原の花火の日は、生憎、台風直撃のようですね.......。みなさんで、ご馳走だけでも一緒に頂きましょう!

 炉開きの時期に咲くので、この名前になったそうですが、少しだけ調べてみました。
石化ひのきも、炉開きも、まともに購入すると、結構高額ですが、オークションは質さえ拘らなければ、安く手に入れられます(笑)
 ただ、炉開きまでに咲きそうです(笑)

目:ツバキ目
科:ツバキ科
属:ツバキ属
種:ユキツバキ(炉開き)
学名:Camellia rusticana

 その中でもユキツバキ・ロビラキ(炉開き)というのは、
ユキツバキとチャノキ(茶の木)の自然交配種で珍しい品種だそうです。
 でも、チャノキの花も11月くらいに咲きますが......。






 現在は『メラニー・クライン トゥデイ ②』を読んでいますが、今朝、ふと読んだマーサ・ハリスのさわりが、現場に大事なことを言い表してくれていたので、アップしました。あかちゃんは利用者さん、母親は支援者として読んでいただければと思います。

 なんやかんやしていたら、夜勤の時間が迫ってきたので(笑)準備します。


児童分析家の語る 『子どものこころの育ち』マーサ・ハリス著・山上 千鶴子訳


第1章 親になること、その始まり
母親になるとは
 母親になるということ。それほど責任の重い務めはないといえましょう。
何しろ一個の新しいいのちに全責任があるということなのですから。そのいのちは心身ともに健やかな成長を遂げるうえでお母さんにすっかり依存しきっております。そうした存在をわれわれはわが子と呼ぶわけなのです。 最初の頃、赤ちゃんに対しての責任の重さ、そのいたいけなわが子の様子を目にするのが負担すぎて、母親が得てして無感覚になってしまうということがあるように思われます。それでむしろ身体的なケアに躍起になるやら、赤ちゃんにも感情があるといったことはまるで否認し、それで赤ちゃんとはただの“反射の束”以外の何ものでもない、だから彼が泣いているときは‘肺の運動をしているだけ’といったふうに考えたりもするわけです。 想像力も求められますでしょうし、愛情を注ぐ努力も要りますでしょう。母親としてそうした思いを経験をすることは、特別な何か、それがことさらに比類のないものというのでなくとも、特別な何かなのです。そしてそれら自らの内なる想像力と愛情に導かれながら、われわれは赤ちゃんの繊細さをどのように保護してあげられるのか、やがてそのいのちが逞しく展開してゆく可能性に対してどのような状況を整えてあげられるかを学んでゆくわけなのであります。 赤ちゃんを理解するためには、まずはわれわれあ自身が赤ちゃんになった気分になることです。われわれは誰しもかつては赤ちゃんであったわけですし、ですから理屈からしても、そうした理解はわれわれの誰のなかにも自然に備わっている情緒的に把握し得る範囲内といえましょう。しかしながら、赤ちゃんそして幼い子どもに見られる傷つきやすさ、そして鋭い繊細な感受性などについていえば、大概のところどうやらわれわれは大人としての分別やらこれまで培ってきた自信を援用し、極力それらをもはや感じないように回避しがちであります。 たぶん、赤ちゃんの身体的なニーズ、つまり食べ物、ほどよい温かさ、睡眠そして清潔であることなどに親としてこころを砕くことはそほど難しいことではないでしょう。理屈としては、これらを提供することも大して難しいとはいえません。しかし実際のところでは、今ここでの瞬間において、わが子にとって最も必要なのは何であるかを逐次見極めなくてはならないわけです。われわれは間違ったアプローチをすることがありますし、それで赤ちゃんがその与えられたものを受容する心の準備がない場合にはただまごつかせてしまうだけになりましょう。子どもは‘理解されること’が必要不可欠なのです。
 赤ちゃんが母親から得るところの献身やら理解といったものは、おそらく他の誰から得るよりもいいものであると一応言っていいでしょう。しかし時として、母親にはそうであることを赤ちゃんに励ましてもらい、またはそれを示してもらうことが必要です。お母さん自身がやがて母親としてもっと確かに思えたとき、赤ちゃんがちゃんと育っているし、それによく反応してくれていると実感できたときに――事実赤ちゃんは全体としてみますと、驚くほど逞しいのですから――それでしばしばお母さんは赤ちゃんに対して心を開いてゆき、その気分やらニーズに対して親密となり、いっそうのこと反応的になるともいえましょう。