うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

朝からバーン!と、一年で日中が一番忙しい日と、【象徴についての彼女の考えは、オリジナルな対象;母親の身体への関心が抑圧され。外界の対象群に置き換えられる、とのことでした。母親への身体への空想上の攻撃ゆえに母親の身体についての不安があまりに激しいなら、置き換えは生じずも象徴形成は休止してしまいます。】


 今日は、地元のお祭りなので、6時に空砲が、バーン・バーン・バーンと威勢よく鳴っていました!
会場が近いので、音の大きさが半端ないですが、それでも寝ておられた方もいました......。大物になりそうですね!
 大阪人のおっちゃんは、夜勤明けの忙しい時に、何回も死んだふりをしないといけなかったので(笑)それだけでも体力がいりました(笑)
 写真はイメージです(笑)
 丁度、地元のお祭りの日に、静岡県の方で運動会がある様で、いつも学齢児さんをお預かりさせて頂いています。
小さかった時は、早く家に帰りたがっていましたが、今日は帰りたくないと(笑)車に中々乗ることができなかったようす。
 毎年、お祭りの初日の日中は、忙しくなります。職員もひーひー言いながらも、成長を見せて頂くのが楽しみな様子でした。
おっちゃんは、お昼まで掃除・洗濯の雑用をして、お昼を皆さんとご一緒させて頂いてから、お役御免となりました。
 こういう大変な日を一緒にやりきると、職員同士の絆も深まって行く感じがします。きちんと連携できる職員同士でないと、乗り越えられませんし、その辺、本当に今日過ごした職員は勉強になったと思われます。

 明日の花火は、台風で難しそうですね......。ご馳走を予約しているので、みなさん楽しみにされています。
中心気圧が現在965hPaなので、少しだけ勢力が弱まりましたが、まだまだ大きいですね.......。





 アップは、昨日読んだ箇所です。
クラインの復習になりますが(本的に当たり前か.....)、ポストクライン派の方たちも、クラインの理論をもっと深くして行くのに驚かされ続けています。
同じような本を集中して読ませて頂いているので、同じような内容が出て来ますが、次に同じような内容が出てきたら、もう少し理解が深まっていればいいなと思いますが、中々難しい理論ですね。通読だけ目指せば、さっさと読めますが、どうせ読むなら、内容を身に付けないともったいないですね(笑)


 今回は下記の違いを理解しようと、頑張ってみました(笑)

 抑うつ態勢では、自我と対象の識別と分化へのはっきりとした気づきや対象へのアンビバレンスについての認識があり、自我の創造物である象徴は対象から分離していると認識されます。』
 『類象徴では、その対象そのものであるというところまで象徴はその対象と混同されます。』






メラニー・クライン トゥデイ2』思索と人格病理

総説
 クラインはもっとも早期の業績のなかでは、知識欲本能epistemophilic instict や子どもたちの不安が知的好奇心を妨げるそのあり方にとても関心を抱いていました(Klein 1921,1928)。これらの不安を検索していきながら、母親の身体の内部を探究しその中身を破壊する空想によってそれらの不安が基本的に引き起こされている、と彼女は考えましたし、この検索は『子どもの精神分析』(1932)で報告した業績へと導いたのでした。そののち、知識欲本能という考えに彼女はそれ以上目を向けませんでしたし、象徴性についてのひとつの論文を例外として、少なくとも外見的には、思索や思考の障害をのちの業績の中心主題にはしませんでした。しかしながら、彼女の考えのうちの2つが思索についてのその後少し業績の出発点となりました。ひとつは象徴についての理論(1930)であり、もうひとつは投影同一化の概念(1946)です。象徴についての彼女の考えは、オリジナルな対象;母親の身体への関心が抑圧され。外界の対象群に置き換えられる、とのことでした。母親への身体への空想上の攻撃ゆえに母親の身体についての不安があまりに激しいなら、置き換えは生じずも象徴形成は休止してしまいます。 象徴性についてのクラインの業績から発展した象徴形成についての素晴らしい論文のなかで、ハンナ・スィーガルは、妄想-分裂態勢での象徴形成、それを類象徴symbolic equationと呼びましたが、それと抑うつ態勢での象徴形成する本来の象徴と彼女が呼ぶもの、とを識別しました(Segal 1957,ここに再掲載)。類象徴では、その対象そのものであるというところまで象徴はその対象と混同されます;彼女、例は、大衆の前でマスターベーションすることを意味してしまうのでバイオリンが弾けないある精神病者です。そうした心の状態のときには、自我は投影同一化を通して対象と混同されます;それは自我こそが象徴を創ります;ですから象徴もその対象と混同されます。抑うつ態勢では、自我と対象の識別と分化へのはっきりとした気づきや対象へのアンビバレンスについての認識があり、自我の創造物である象徴は対象から分離していると認識されます。それはその対象と同じになる代わりにその対象を表象します。それから。クラインが彼女の象徴性の論文で描いたように、オリジナルな対象群から別のものへと攻撃やリビドーを置き換え離すためにそれが利用でき始めます。 類象徴(しばしば、“具体象徴”とも言及されますが)とはまったく異なり、真の象徴はこのように抑うつ態勢に本来備わっている哀悼mourning の沈殿物ですし、対象が独立して存在していることの認識の沈殿物です。空想についての論文(1964b)でスィーガルは、現実に対してテストされる仮説(ビオンの言い方では前概念)として無意識の空想が使われる過程を描いています。それが内的現実と外界現実との識別をもたらしますし、思索や本来の象徴の使用についての基礎を敷きます。