うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

彼岸花と人形と、【もちろんのこと、こうした万能感は挫かれます。赤ちゃんの‘母親を創造する’といった幻想は消失します。それはそのニーズがあまりにも甚だしくなったとき、あまりにもおなかがすいていたり、もしくは不快だったり、また赤ちゃんが感情が‘偽の’宥めすかしではもはや間に合わないほどに強烈になったりしたときであります。】


 数日前から彼岸花が咲きだしていました。毎年、彼岸前になるときちんと咲くのが、本当に不思議ですね。
近くの畑のものを、3輪頂いてきました。
 五輪塔は、今日所用で行った先の近くにあった、古道具屋さんで500円で買ったものです。
沢山の木材をこんな風に彫刻刀で彫ってみたら面白いなと思い、参考にしようと買ってもらいました。

 ポストの横の神様にも一つ飾らせて頂きました。
歯医者さんの予約が入っていたので、慌てて帰って来ましたが、予告なく(笑)抜歯され、出血(+++)だったので、暫くしゃべれず(笑)道で会った職員さんにもきちんと話が出来ず、申し訳ありませんでした....。
 夕食は大久保さんの豆腐を買って来てもらいました。



 その古道具屋さんで、親分がカーグの画題用にステキな人形をみつけました!
とてもしっかりしたお顔をしているので、高価だと思い、ネットで調べたら、ついていた価格が格安だったので直ぐに親分が買っていました(笑)
 もうすぐカーグの日ですね!素敵な作品が出来るのが楽しみです。
人形さんと何を親分は持って行くのでしょうか?







 夜勤明けで、うたたね横のファミマで本を読もうと思っていましたが、直ぐにお迎えが来たのでそのまま用事を済ませに行き、本が読めなかったので、歯科医院での待ち時間に下記の半分を携帯に打ち込みました。
 本当に精神分析の過程や概念を非常に分かり易く記述してくれているので、これなら皆さん読んでくれるでしょうか?精神分析を少しだけですがかじったので、その理論を分かり易く記述していると思えるのか?
 北山修先生の難しい本も、これを読めばもっと理解が深まるようにも思いました。例えば、スプリッティングやアンビバレンツや統合でしょうか?(北山先生だけの理論ではありませんが)精神分析を勉強するにあったって、乳幼児観察が基になっているのが、本当に理解できるとも思えました。
現場でも重要な事だと思いますので、アップさせて頂きました。



母親はどのようにして赤ちゃんにとって‘一人のひと’になるのか
 赤ちゃんは、このようにニーズが充たされるといったあらゆる経験をとおして、それらを徐々にまとめながら、やがてだんだん‘一人のひと’としての母親のイメージを形づくってゆくわけであります。それは、赤ちゃん、とって信頼できる誰かであり、そして慰めをもらいたいとか理解されたいやら、また一緒に側に居てほしいとか、遊び相手になって欲しいといったときに呼び求めるところの誰かということになります。 しかし、もしも理解されるとか、慰められるとかが全然ないといった経験、まず何より最悪ともいえる不快やら恐怖に震えているときに、手近なところに母親が不在であるといった経験はどうでしょうか? 幼い子どもはそうしたこともまたそれなりに意味づけをし、考えをまとめることをいたします。それらを認知できるかたちにするわけです。つまり厭な対象として登場自分はそれらとは関係など一切ないといったふうにきっぱりと片付けて、それで自らの外へと排斥せんとするでしょう。そして慰めを与えてくれてニーズを充たしてくれ、そして彼自身の一部分として、つまり彼という存在の中核として、しっかり固定させているところの母親のイメージからそれを断固切り離し、画然たる別々なものにしてしまうのであります。 こうした理想的な母親と一体であると感じられること、そうした完全な至福そして無上の喜びを獲得する真には赤ちゃんのさらなる発達にとって極めて重要なことであります。言うなれば、それは天国のプロトタイプでもあります。そしていつか悲嘆の極みで絶望していても、もしそれを忘れずに覚えていたとしたら、たとえ今失われているとしても、改めて目指す価値があるといったふうに、何らかの希望を蘇らせてくれる支えにもなってくれるでしょう。 こうした一体感、完全な調和がもたらされる最も完璧なありようとは、母親と赤ちゃんのいずれにとってもハッピーな授乳状況をとおしてであるといえましょう。そのような身体的な接触において母親は自信に溢れて、そして自らを赤ちゃんに与えられることを大いに喜べるようになりましょう。母親なら誰しもそうすることができるともいえません。それぞれなりに自らがなんとか工夫を試みるしかありません。母乳を与える授乳状況がうまく成立するか、失敗例するかは周りにどんな援助があるかということにも結構左右されるものと思われます。お母さん方はその最初の頃、助産婦さん、医師、看護婦、そしてしばしば彼女自身の夫たちによってそうした援助できる得るといってもいいでしょう。 それを生まれたばかりの赤ちゃんの最初の数週間における母親との接触のパターン、すなわち口と乳首、手とおっぱい、手と母親の着ている上着などというそれらは赤ちゃんが一人いたベビーベッドが横にされているときに、それ自らによって再現されることがよくあります。だとか、親指と口、手と手、指と毛布といったぐあいに……。こうしたことは彼自らの感触を思い出すばかりではなく、そのイマジネーション(想像力)において、母親で存在を繰り返し相起しているわざわざなのです。そのようにして彼は、どうやら万能感的にお母さんが不在で一緒に居ないときにもあたかもそこに一緒に居るもののようにしているといえましょう。
 もちろんのこと、こうした万能感は挫かれます。赤ちゃんの‘母親を創造する’といった幻想は消失します。それはそのニーズがあまりにも甚だしくなったとき。あまりにもおなかがすいていたり、もしくは不快だったり、また赤ちゃんの感情が‘偽の’宥めすかしではもはや間に合わないほどに強烈になったりしたときであります。指しゃぶりにしても、身体的もしくは情緒的な飢えがあまりにも甚だしくなったときにはもはや役に立たないということになるわけです。