うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

萩と、番犬にならへんやんかと、【赤ちゃんの‘親離れ’できる能力とは】


 自死した母親の遺伝か?(笑)時々心が乱れる時があり、山に行って萩を頂いてきました。
投げ入れると心が落ち着きました。中学生の時に、花屋さんになりたくて、農業高校を志望したのですが、成績の関係だけで担任に辞めろと言われました(笑)
貧困家庭だったので、大学には行く気がなかったので、職業高校を選びたかったのが本音でした。
 現場の皆さんにご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。
 花器は、安く買ったもので、継ぎ接ぎだらけで、水が漏れます(笑)年末チャリティーでの商品と思いましたが、残念です......。


 夜勤明け、体を追い込みにジムに行って、最後に按摩器をしていたら現場から呼び出しがあり(笑)現場に入りました。
楽しい時間を過ごさせて頂き、先程帰宅しましたが、ひーひー王子が自転車で帰っても寝ていて起きません.......。番犬には向いてませんね(笑)


昨日アップした箇所で一番重要な箇所が抜けていたので再度その箇所だけアップします。
赤字の箇所が抜け落ちていた箇所です。

『〜ヘレン・ケラーの自叙伝(1954)のなかの美しい一節に言及してみよう。そこではどのようにしてヘレン・ケラーが初めて話すことを再発見したかを描いている。長い間、先生は彼女の手のひらに字を書くことによって彼女とコミュニケートしようと試みていた。ヘレンは反応しなかった。気を配ることもまったくなく、物を壊したり、破ったりすることが続いた後に、彼女はある人形を壊してしまい、そのことに初めて泣いた。その日の午後、先生が、もう一度、彼女とコミュニケートすることを試みて、手のひらにある言葉を書いたとき、ヘレン・ケラーはそれを理解し、反応した。このようになって象徴的なコミュニケーションを理解する能力が彼女の初めての抑うつ感情の体験、自閉的な子どもたちを分析している人びとにはとても馴染み深い体験だが、それに続いてただちに、そして直接に生じた。〜』



 上記は、メラニー・クライン トゥデイ2ですが、下記のマーサ・ハリスの本は、本当に分かり易いですね!クラインやポストクライン派の本をやはり少しでもかじったからでしょうか?
こういう支援が出来たらといつも思いますし、現場の職員達とも共有できたらいいなとも思います。

 いつも添い寝をしないと眠れない方が、昨夜初めて一人で寝る事ができました。5年かかりましたが、良かったです。ウィニコットでしたか?一人でおれる能力のことを読んだ記憶があるので、その本を探してもう一度読んでみます。



赤ちゃんの‘親離れ’できる能力とは
 外界のひとびととの経験を意味あるものにするためにも、子どもは徐々に彼自身の外にあるものと、こうであって欲しいとの願望から生じる、自分の内に帰属するところの‘幻想’とを区別してまいります。
 赤ちゃんがそのいのちの最初のステージとは、おそらくは母親の胎内で抱かれているときであり、それからきっと彼女の腕のなかにやさしく抱っこされているときでありましょう。そしてさらには、母親は自分と違うということ、つまりこの抱っこしてくれて、慰めてくれ、ハッピーにしてくれるそのものと自分は同一ではないということを気づくときがまいります。その‘慰めとなる存在’に対して絶対的もしくはコントロールというものを自分のは持ち得ないとなることなのでです。こうした気づきは彼にとってとても受け入れ難いでしょう。ですから赤ちゃんは、攻撃‘慰めと慰め存在’をあらゆる手段でことあるごとに再現させようと努めます。玩具。使いながら、自らのからだを刺激することで、また記憶力および想像力を援用しながら……。そんなふうにして、赤ちゃんは外の世界、母親そして父親、それに歩かにもお気に入りの誰かで信頼を寄せるところの人々との親しい接触を維持してゆこうとするわけであります。
 ところで、子どもが母親は愛着し、そしてその母親から離れて一人で居られるかどうかというとになりますと実にさまざまであり、ある子どもはどちらかというとほかの子と比べていっそうそれが困難のように見受けられます。つまり、そんなにも大事なお母さんがいなくなってしまい、自分がほったらかしにして他のところで別の用事にかまけてるなんで、そんな勝手は断じて許すことなどできない、だからぼく一人でご機嫌よくなんか自分いてやるもんかといったふうに……。それでなりふり構わず母親にしがみつき、視界からちよっとでも母親の姿が消えてしまうと大騒ぎすることでしょう。それからもしかしたらどう見ても母親の不在をそれほど気に留めないふうで、いかにも自立しているように見えたりする子どももいます。いくらか早熟といっていいほど、母親がいなくとも平然としているわけです。しかし、内心母親それ自身が自由を有することにどうにも耐えられず、全然折り合いがつけられないでいるとしたら、その子の自立は脆く不安定で、いくらか情味の乏しい冷ややかな性質を帯びるものになりましょう。それに他にも母親の方もまるでその怠慢を子どもにに詰られているみたいに感じ、あるいは充分にいい母親に見なしてもらえていないといった理由で実のところ内心密かに怒っている場合にはなおさらどこか無理があろうかと思われます。






今や、時として、家族内が子どもを中心に廻っているといったときがあることいえば確かにたぶんそうでしょう、しかしながら、それがずうっと延々に長引くとしたら。彼にとっても、もしくは良心もしくは他の子どもたちにとっても良いことではありませんでしょう。お母さんがわが子についてそのニーズにぐんと馴染んできた頃には、食事であっても入浴であっても、少しぐらいなら待たせても大丈夫だといったことに分かってまいります。彼がやかましく騒ぎ立てるとして赤ちゃん、そうした泣き喚きが助けを必死に求めているのか、ただ威張り散らしているだけなのかを見極めることができましょう。
 あなたは、ご自身の心のうちで、本当のニーズと‘貪欲さ’というものを区別することを学ばねばなりません。そうでなければ、あなたのごとのなかにそうしたことのくべを見抜くことはできませんでしょう。そうしますと、果たしてこの瞬間、わが子が本当にどうしょうもなく体調がおもわしくなくて、それで母親のやさしさを必要しているのか、もしくは一人にしておいてもどうにか大丈夫でいるだろうといった判断が付かなくなりましょう。実際のところ彼が、あなたは自分の言いなりになるはずであって、そうでならなければならないものと飽くまでも頑なに心に決めているとしたら、それもなかなか手ごわいわけでありますが。
 ‘制限をもうけること’は起立の一つの側面でありますけどしかしまたそれにはもっと廣い意味もありますし。極めて重要な何かであります。つまりのところ、いずれわが子がその児童期および青年期を通して、自信をもっておのれの真の値打ちというものを会得し、将来自分にはどういう可能性があるのか訴訟なにに挑戦したらゆくべきかといったのでをあれこれ思案しながら、いつしか真実‘一人の大人’としておのれを見出だすことを思いますと、そうしますとためにも規律は、われわれ親が彼らを援助してあげられる一つの手だてなのであります。