うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

あいちアール・ブリュット展の準備と、ナレッジワーカーとスキルワーカーの比較と、【連結への攻撃は、メラニー・クラインの言う妄想―分裂期に始まる。この時期は部分対象関係が優勢である(Klein 1948)】



 今日は、休日でしたが、会計事務所に行ったり、給与計算などの事務をしたりしていたら、あっという間に一日が終わってしまいました.....。
親分は、11日の夜勤明けに、名古屋市民ギャラリー矢田 3階 第2展示室に持って行く、あいちアール・ブリュット展に出品する作品を額装したり、パネルにレイアウトして張り付けたり、梱包したりしていました。
 先日も、あいちアール・ブリュットの方がうたたに来られて、皆さんの作品を見て感心されていましたが、今日も親分が準備しているのを横目に見ていましたが、改めて皆さんのパワーを感じました!
 アトリエ・カーグはもう、13年走り続けています! 途中、事業が始まり大変な時期もありましたが、中断することもなくやり続けたことを皆さん評価して下さいますし、自分たちのアイデンティティは、アートと音楽なので、それを途切れさせることは、おそらく自分の存在ががなくなることだったのだと、こちらも改めて感じました。
 アイデンティティを守りながら、これからも生きてゆきたいと思っています。
今日も、本とギターは頑張って?しつこく?(笑)こなしました。




 職員の面接をさせて頂いていて、ふと、下記を思い出しました。これからは本当にナレッジワーカーの時代だと思っています。
これは決して高学歴とは関係ないと思います。どれだけ現実を見つめられ、どれだけ学習してきたことを、本当にそれに一番合った方法でやっていくのか?を判断し、実行していける能力の事だと思っています。
 魯山人先生は、学者は万冊の本を読まないといけないし、骨董屋は、やはり万個の骨董品をみないといけないようなことを言っていました。



ナレッジワーカー
・knowledge worker
オーストリア経営学者・社会学者であるピーター・ドラッカーによって用いられたことば。
・ナレッジワーカーとは、企業に対して知識により付加価値を生み出す労働者の事を表し、知的生産物を創造する労働者に用いられる。従前の製造(生産)に従事する労働者(単純 労働者)に対する対立概念でもある。

 ピーター・ファーディナンドドラッカーは、「新しい経済においては、知識は単に伝統的生産要素としての労働、資本、土地と並ぶもう一つの資源というより、ただ一つの意味ある資源である。」と、資本主義社会の次に知識社会の到来を予言しました。

ナレッジワーカーとスキルワーカーの比較
スキルワーカー
1.手続き、ルールを遵守する
2.管理者の監督による職務の遂行
3.企業に対して帰属意識を持つ
4.専門分野のみに関心を持つ
5.規則や前例にしたがって仕事を行う
6.決められた与えられた役割の仕事を行う
7.決められたルールにしたがって仕事を処理する




ナレッジワーカー
1.価値、意味を重視する
2.自律的な行動を尊重する
3.専門領域に対して帰属意識を持つ
4.専門分野以外にも広い関心を持つ
5.仕事の目的、意味、価値に即して仕事をする
6.創意工夫を加えて仕事の有効性と効率性を高める
7.新しいビジネスチャンスを創造する




 やはり、ビオンは難しいですね.......。哲学書を読んでいるようです.....。まあ、自分に知識が無いから苦しむのでしょうね(笑)

好奇心、傲慢さ、愚かさ
連結への攻撃は、メラニー・クラインの言う妄想―分裂期に始まる。この時期は部分対象関係が優勢である(Klein 1948)。自分自身でない対象群との間でと同じく、自分自身との間とでも患者が部分対象をもっていることを心に留めておくなら、障がいの軽い患者ならば、「私は……と考える」とか「私は……と思います」と言う場面で、障がいの重い患者が通例、「それは……のようですit seems」といった言い方をするのに納得がいく。患者が「それは……のようです」と言うときには、患者は、患者の精神の一部分であるが、いまだ全体対象の部分としては気づかれていない感じ、つまり、“のような”感じ‘it seems’feelingのことをしばしば言っている。患者が具体イメージを志向の備品として使うことに乗せられて、部分対象という概念を解剖学上の構造と類似したものと考えることは、誤った理解をもたらす。というのは、部分対象関係は、解剖学的構造にではなく、機能に関係しているし、解剖学にではなく、生理学に関係しており、乳房にではなく、食物を与えることや毒を盛ることや愛することや憎悪することに関係しているからである。こう述べ変えると、惨事がダイナミックなものであって、静態的なものではないことがはっきりと感じられよう。この早期の、いまだ表面的なレベルで解決を要する問題は、大人の言葉で言えば“それは、なぜか”との問いではなく、“それは、なにか”との問いで言い表わせねばならない。というのは、“なぜか”は、罪業感のために排除されてしまっているからである。 そのため、その解決は原因に気づくかどうかにかかっている問題は、解決はおろか、言い表わすことさえできない。このため、分析家と患者とが存在していることで提出される問いの外には、患者には何の問いもないような状況が作り出される。 患者のもっぱらの関心事は、患者が気づいてはいるが、その全体は把握できない部分的な機能の、この機能やあの機能は何と一緒かということである。したがって、患者や分析家がそこにいるのはなぜかとか、あることが言われたり為されたり感じられたりするのはなぜかといういった問いは、決してありえないし、心の状態の原因を直してみようかとの問いも存在しない。“なにWhat?”は、“どのようにしてHow?”や“なぜWhy?”
なしでは決して答えられないから、さらなる困難が生じてくるが、このことはとりあえず横に置いておく。幼児がある機能と部分対象関係にあると思われている時に、“なに?”という問いを解決するために幼児が利用する機制についてよく考えてみたいからである。