先日行った、九谷焼美術館にあった、水琴窟です。
残念ながら音は聴けませんでしたが、中々風情のある物でした。
なんやかんやで、結局、昨日は夜勤にはならず(笑)今日が、シフト通り夜勤ですが、事務仕事が溜まっていたので(笑)午前中から今までやっていました.....。
少し休憩してから夜勤に入ります。
本は『メラニー・クライン トゥデイ2』を読み終え、3に入りました。技法編とのことなので、より現場に反映できるのか?と期待しています。
まだ、総説のさわりを読んだだけですが(笑)
アップは昨日読んだ箇所です。ビオン何かが定式のようにしていますが、自分としては数学が苦手なので、逆にアレルギー反応が起きてしまいます.....。
討論
〜構造体の目的は、そのままの状態、すなわち自己愛対象関係が存続し、投影同一化によって自己と対象が混同している状態を保持することのようであり、この状態は、抑うつ態勢の早期にみられるものと類似している。対象は投影同一化により所有され、あるいは支配され、同一化されている。対象群と自己の投影された諸部分とを一緒に固め、その結果、この自己の投影された諸部分が自我へと撤退し帰るのを妨げるよう務めているのが、この防衛群の組織化にともなう特徴である。
これは、対象が放棄され喪に服される抑うつ態勢の次の段階が進行せず、患者は、手放すことのできない自己の諸部分を含んでいる具体的に内在化された対象群をしょいこんでいることを意味している。そこで抑うつ態勢を進めることは、対象喪失に直面するのみならず、その対象に内包物されている自己の喪失も必然的に含むことになる。喪は正常ではゆっくりと対象から自己を分離させるが、これが進行しない。そのため投影物の復帰による自我の豊穣化といったような喪がもたらす利益や、とくに喪の結果として生じる象徴的に考える能力が展開しない。 病理構造体は、明らかに理論上興味深く重要だが、この概念が最も役立つのは、とりわけ臨床道具としてであると私は思う。三角形の平衡図式を心に留めているなら、3つの状態の2つの間での移行や起こりかかっている移行と関連したセッションでの中心的な不安を私たちが同定するのに役立つ。たとえば移行は:
妄想←→病理構造体
特に分析の初期の、不安な患者の極限の緊張領域である。実際のところ患者は、症状を開花させた、防衛構造体の崩壊の結果ゆえに分析を求めていたかも知れない。それで、分析では、患者は症状軽減のため、構造体の再建を企てようし、分析家を防衛システムの一部としてしばしば利用するだろう(Riviera 1936;Joseph 1983)。分析家は、この段階では、患者の最優先は自分の平衡を見いだすことにあるので、通常の分析的意味では、理解するだろうについての興味を患者に持たせる可能性がないことを理解しておく必要がある。時々、不安は急速に改善するが、それは、分析家がそこにいて何等の展開も進行しない限り、患者がかなりうまくやっていられる長い行き詰まりの時期の先駆けに過ぎない。断片化と混乱に戻ってしまう恐怖は絶大なため、進展は許されない。長い期間、私の患者は、パニック発作で表されるような解体状態を恐れていたようだった。そして、患者が分析中に成し遂げた平衡により、比較的不安はないが、進展はまったく不可能なままだった。 ときどき、防衛を、構造体の中に巻き込まずに分離して作用させるほど病的でないやり方で、患者が操っているのを観察できる。そして、これは平衡の1つの表現として考えることができる:
妄想−分裂態勢←→抑うつ態勢
しかし、たとえ比較的よく適応している患者でも、病理構造体が優勢となる事態が生じる。患者は、ある葛藤を克服できないため、時には患者の精神生活での限局された領域だけにはまりこむ。ここでの事態は、分析全体が構造体で支配されている患者に見られるものの軽症版である。分析が葛藤の困難な領域を扱おうとするなら、両タイプの患者の分析で平衡が生じる:
病理構造体←→抑うつ態勢
たとえ非常に行き詰まったこれらの患者でも抑うつ態勢へと歩みをときおり進めるのがよく見られるし、この歩みに気づき、解釈することが重要である。抑うつ不安とふれあう動きの後、まるで患者が、対象群との密接な関係に伴う情緒的ふれあいをとても体験できないと主張するかのように、病理構造体へと撤退してしまうことももちろんよくあることである。ときどきこれは、抑うつ態勢を特徴づける罪業感と絶望にもちこたえられないことに、そして時には加えて、防衛構造体the protective organization(Joseph 1981)の放棄に伴う心的苦痛への不耐性が高まっていることに関係しているようである。分析のほとんどは、さらに続く行ったり来たりのこれらのシフトに占められるかも知れないが、症例によっては、進歩と発展が確かに生じる。そして、患者は、病理構造体から、より現実的な対象関係へと何とか脱出する(Segal 19~)。