うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『中井久夫の臨床作法』中井久夫に学ぶと、【「“物事はいかにして意識化されるか”という質問は“物事はいかにして前意識化されるか”という方がより良いであろう。そして、その答えは“それに相当する言語性イメージと連接するようになることによる」(Freud 1923)】


今日は、夜勤明けお昼を男性の利用者さん達と、アプレシオにご一緒させて頂き、ジムで体を追い込んで、帰宅し給与計算しようとしましたが、眠気が来たのでギターを(何でそこにいくかw)弾き(それもウィスキーがお好きでしょ!)、難しさで少し目が覚めましたが(笑)給与計算が出来るまでの回復は無理でした......。
 写真は、以前、白谷で写したものですが、何の紐なのでしょうか?




 ホームの利用者さんたちは、爪白癬が完治された方もおり、他の方々も大分改善しています。
ショートの方々も、日中一時の方々も、爪白癬があるかたが多いので、ふと以前にアップさせて頂いた物を思い出しました。下記がそうです。

 下記を以前読んで、現場の職員たちに、ずっと、利用者さん達を丁寧に見てほしいし、丁寧に見させて頂かないと、その方の特性が全く見えないし、勿論きちんとした支援が出来るわけがないと、口酸っぱく言わせて頂いていますが、浜松の高木さんが言われていたように、職員の為の施設にしようとしてしまう職員がいるのも(うたたねだけではなく)悲しいかな、事実です。まあそれの方が楽ですが、本当にしんどい所を通過しないと、福祉もアートも音楽も、きちんとしたことが出来ないし、人を感動させることもできません。悲しいかな.....楽な方に走る方の方が、このご時世、多いですね.......。、
 『星野先生は足の爪の白癬を丁寧に診るのです。そして体重だけでなく、身体を丁寧に診るのです。』

 『一人の人ときちんと向かい合うというのは、気持ちで向き合うだけでなく、足の爪の白癬を丁寧に処置する(いたわる)。そういう感覚が実は人を遇するということなのですよね。その部分に僕は非常に感動したのです。』





中井久夫の臨床作法』中井久夫に学ぶ(後編)

診察時の作法―かたちとその意味

青木 僕は星野先生の臨床をみて、それから本を読んで非常に感動して、若い人と何度も勉強に行ったのですが、星野先生は足の爪の白癬を丁寧に診るのです。そして体重だけでなく、身体を丁寧に診るのです。 一人の人ときちんと向かい合うというのは、気持ちで向き合うだけでなく、足の爪の白癬を丁寧に処置する(いたわる)。そういう感覚が実は人を遇するということなのですよね。その部分に僕は非常に感動したのです。

山中 星野先生はいつそんなふうに思いつかれたのですか。

星野 いつからやっているのか全く覚えがありません。少なくとも20年以上やっていると思いますが。

 25年前に話されていました。私が研修医だった時におっしゃっていました。

滝川(一)
 足の痛んでいる人は多いですね。爪がねじ曲がっていたり。

星野 それから白癬の跡を見ると、患者さんの病歴が見えるのです。この人はかなり苦闘したのだろうなという跡が小指に残っています。他の指は治っていても、小指にはまだ爪白癬の跡が残っているのです。
 爪白癬は親指から治ってきますから、小指に痕跡が残っているからもっとひどい時は親指から全部五本とも水虫で肥厚した爪をしていたのだろうなということがわかるわけです。
滝川(一) 小指まで水虫になってしまうというのはよくよくのことなのです。手当をする余裕がなかったとか、そういうことを気にしてくれる人がいなかったということなのでしょうね。
星野 そのほかに舌を診ます。便通や爪白癬のことを聞く・診るという視点は中井先生から盗みました。

編集部 鍼や整体の治療に行くと、脈を測られることが多いです。

滝川(典) 漢方は必ず脈を診ます。

中井 京大の医学部の学生の時には、脈のとりかた、身体の診察のことは習いましたよ。

滝川(一)
 岩谷良則の診断学には脈系のことも、身体診察の細かいことが書いてありましたね。

編集部 精神科の研修で身体診察が基本になってはいかないのですか。

滝川(一) 今は内科でも脈を診たりしないのではないですか。

星野 内科の先生は便秘すら診ないですよ。下剤をぽんと出すだけです。便秘のストレスなど考えたことがないと言います。

 中井先生のされていることの意味に気づくのには、やはり年数がかかるのです。〜








 下記は、夜勤明け少し休憩している時に読んでいた箇所ですが、途中になってしまいました....。続きがあるという事で、お待ちください!
でも、誰も見ていない現実......。

フロイトは思考を行動抑止の手段を提供する機能を持つものと考えている。しかし、彼は続けて次のように言っている。「おそらく思索thinking は、それが単なる観念構成の上に生じ、また、対象インプレッションobject -impressions間の関係に向かっていたかぎりにおいては、もともと無意識だったろう。また、おそらく、言葉の記憶痕跡との接続を通したときに初めて、意識に知覚できるさらなる特質を賦与されるようになったのだろう」(Freud 1911)。私は自分の経験から、言葉や聞きとりよりもむしろ表意文字や見えるものと呼ぶべきものと関連するある種の思考がまずはじめに存在していると考えるようになった。しかしながら、これは対象群に対する均衡のとれたとり入れと投影の能力、また、さらにはそうしたことの気づきがあるかどうかによる。これは人格の非精神病部分の能力においての問題である。なぜなら、それはひとつには私がこれまでに述べたような知覚装置の分割と放出という理由からであり、またひとつには私が今これから述べる理由による。 人格の非精神病部分の作動のおかげで、患者はとり入れがフロイトが言うところの「対象インプレッション間の関係に向かっていた」無意識的思考の形成をもたらしていることに気がつく。さて、私はフロイトが対象インプレッション間の関係に向かっていたと述べているこの無意識的思考こそが感覚インプレッションに「付随している意識」に関しての責任を負うと確信している。12年後の論文『自我とイド』の中の彼の見解で私はこの思いを強くした。この中で彼は「“物事はいかにして意識化されるか”という質問は“物事はいかにして前意識化されるか”という方がより良いであろう。そして、その答えは“それに相当する言語性イメージと連接するようになることによる」(Freud 1923)と述べている。