うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

牡丹が咲いた!と猫はいいな〜と、中井久夫随想 ―論文「薬物使用の原則と体験としての服薬」をめぐって


 牡丹の花が咲きました!ホームセンターで見た物よりは一回り小さいですが、立派に咲きました。
 玄関を出ると、良い香りがして、幸せな気持ちになります。

 今日は休みを頂いていましたが、役所から電話があったり、気になる仕事を(事務)してしまったり、貧乏人はいけませんね(笑)
 思い切ってギターを弾きまくろうと、廊下に出たら、ねこさんが気持ちよさそうに寝ていました(笑)
 休みの日はねこさんのようにと思いますが、中々真似が出来ません.....。



 本があっちこっち行っていますが、『木村敏中井久夫』からアップさせて頂きます。打ち込んでいたら、あれもこれもになってしまい、少し中途半端感があります(笑)


木村敏中井久夫
Ⅱ 中井久夫の臨床をめぐって
中井久夫随想 ―論文「薬物使用の原則と体験としての服薬」をめぐって
 〜中井がこれまで著したものは数知れないが、今回は「薬物使用の原則と体験としての服薬」(『治療の聲』一巻二号、1998)という論文を導きの糸としていきたい。〜

 私は回復期において原則的に賦活を目標としては薬物を使用しない。賦活は自然賦活を最良とする。しばしば「修理途中の自転車にロケット・エンジンを付けて走らせようとする」人があるが、長期的には決して実らず、しばしば端的に破壊的である。「医師は何よりも先ず慎重でなくてはならない」
 
 医師の人柄を鑑定し、合格すれば、どんな処方でも受け入れるが、そうでなければコンプライスを維持しない人、すなわち、「医師が最良の薬である」という格言がもっとも妥当する患者であるか。この場合、慎重性がもっともよく評価され、自慢がもっとも低く評価される。そのために初回に処方しないことさえあり、たいていは二日の処方で、(「眠れなければ翌日おいでください」と言い添えて)一日おいて会う(もし眠りがどっと出れば翌日の来院は有害性の方が高い)。

 処方は慎重を旨とすべし、というのは精神科臨床の基本中の基本である。しかし、それを常に胸に留め、実践するのはとても難しいことである。中井の精神科臨床についての知恵の数々に接するときにも、この基本を踏まえていなくてはならない。評者も、医療および医師というもの全般にわたって猜疑心を漲らせている患者には、まず己を信用してもらうことに専心する。そして、その評価をその場では要求せず、いったん自宅に帰って「もう一度来院して、この医師に心身を委ねていいか、考えてきてもらう」ということをよくする。

 医療の専門家ではない患者であるが、原則としてその患者が医療の流れを主導すること、それに脇から力を添えるのが医師の本来的な役目であることを痛感したのは、中井の文章に出会ったためである。「たいていは二日の処方で、一日おいて会う」という細部にまで込められた配慮も、いかにも中井らしいものである。

 すべての場合に重要なことは、患者が薬物の作用に「賛成」するように持ってゆくことである(私が「受容」といわないことに注意してほしい)。
患者に「服薬感覚」を聞くことが必要である。これは、治療に患者が参加する第一歩である。その際に回復過程の初期には、薬物効果に対するアレキシシミア(感情失読症)がありうることを考慮すべきである。サリヴァンによれば、自己身体の辺縁的感覚の回復が急性精神病状態からの回復において最初に患者に期待しうることである。これはアレキシシミア回復の第一歩となりうるので、服薬感覚を問うことは、そのためにも重要である。また、患者の服薬感覚は多く実態に即しており、患者が合わないという薬は先ず「ほんとうに合っていないのではないか」と医師自ら疑うことが必要である。この反省は、患者に伝わって治療関係に寄与する。

 一般に、薬物は常に医師とその言葉とともに処方されなければならない。薬ののみごこちは決して聞きわすれてはならない。


 私は、新薬は使用に先立ってほとんど必ず自己服用してきた。(中略)。
 私はまた、臨床において、常に「薬ののみごこち」を患者に聞くようにしてきた。(中略) 
 自己服薬体験と患者の「のみごこち」報告という、この二つのデーターを交えつつ、薬物使用体験とする。これは科学論文を目指してはいけない。(中略)私の目指すのはむしろ、江戸期の「農書」である。あれは日本的なプラグマティズムの一つのモデルである。
 
 ここにあるように、「薬ののみごこち」を患者から聞くというのは、あらかじめアレキシシミア傾向にある患者が、回復の足がかりを得るためにそれが欠かせぬものであるからであり、また患者が薬物の「賛成」するように持ってゆく前提として、患者によって治療における主体性の獲得がなされてなければならないからである。「薬ののみごこち」を了解し言語化する作業は、慣れない人にとって存外難しい作業なのだが、いったん言葉を紡ぎだせるようになると、今受けているプロセス、ひいては薬にさまざまなかたちで反応している自らの身体のありようについて自覚的になることができ、治療(治療(および治療関係)がドラスティックにかわりうるのである。〜

 慢性分裂症状態においては、症状を標的とせず、身体および生活の全体を標的とする。多くの症状は、皮膚炎におけるカサブタのように保護的である。これを強引に奪うことはカサブタを剥がすに等しく、われわれは基本的には自然脱落を待つべきである。

 私の考えでは、薬物の標的となるものは、恐怖であり、不安であり、その背後にある精神、自律神経系、内分泌の超限的興奮あるいはその遷延膠着状態、要するに生体の心身の全体であって、決して診断の手がかりである特異症状ではない。〜




 太い青字の部分が、中井先生の引用と思われます。
自分達には薬は触れませんが、現場に持って行きたいと思う箇所でした。

農書をいろいろ調べましたが、奥が深すぎて全く要約できません。

 農書全書はこんなにありました.......。
隠居してから読ませて頂きます(笑)