うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、台湾かき氷と、【自閉症児に通常の健康な成長に特徴的なタイプの葛藤や抑圧をもたらすために、奇異な活動に対しては決然とした制限を受ける体験をさせる必要があると、Tustinは確信しています。】


 今日は、初立池を約一時間歩きました。1周は軽く超していると思われます。
危ない場所は避けて、引き返したので沢山歩けました。
 散歩の20分前は、強い雨が降っていたので、歩き始めは涼しく余裕でしたが(笑)半分くらいからお日様がかんかんに照りだして、溶けそうになりました......。
水分補給はまめにしています!


 お昼からは、日中の作業所の帰りが早いグループがいたので、セメント会館に、台湾かき氷なるものを頂きに行きました。
おっちゃんのは、としちゃんと半分づつしようと思っていたら、としちゃんに全部食べられていました.......。(笑)
 まあ、自分には甘すぎたので良かったかもです(笑)
暑いので、冷たい物が欲しくなりますね!

 昨日、名古屋の行き帰りに沢山本を読んだので、ネタは沢山ありますが(笑)上段が、この本で一番、自分が確信が持てた箇所のアップです。


常同行為の扱いにおける技法上の問題――31歳になったロビー自閉症児に通常の健康な成長に特徴的なタイプの葛藤や抑圧をもたらすために、奇異な活動に対しては決然とした制限を受ける体験をさせる必要があると、Tustinは確信しています。したがって彼女は徐反応や浄化法に反対であり、精神病的な子どもの個人心理療法の多くは許容的で受動的すぎだと警告しています(Tustin 1981:154)。Sue Ride(私信)は、同様の見解を持っています。二人とも、制限はうまく配慮して行わなければならないと論じています。Tustinは、不器用で無神経なやり方でこのような活動をやめさせるのは、それを続けさせるのと同じくらいかもっと有害であると述べています。すなわち、「最も重要な目的は、子どもが理解のある確固とした手に“抱っこされている”と感じ、内的構造が発達し始めるのを手助けすることにあります」(Tustin 1981:155)。 Barroesは、さらにこれを先に進めています。彼女は、Tustinの仕事に影響され、Californiaで彼女が治療しているAsperger型の子どもは確かに器質的欠損を持つと確信しています。彼女によれば、彼女のアプローチと伝統的な非指示的なプレイセラピーのアプローチとの間には重要な相違があります。
 非指示的アプローチにおいては、治療者は子どもからの手がかりを待つのが不可欠ですが、Aspergerの子どもの遊びは固執的で非関係的な側面を持つので、治療者が子どもをそこから引き出すために積極的に介入する必要があります。しばしば伝統的な心理療法においては侵入的に思われるであろうことをする危険を冒して、私は、患者の遊びを構造化しなければなりませんでしたが、それは子どもが儀式的な行動に固執していたであろうところに、象徴的もしくは相互的な内容を導入するためでした。(Barrows 1988:149)


儀式に対する様々な説明
Dawson は、自閉症児は注意の異常があるという心理-生理学的証拠について論じています。すなわち、彼らは馴化しないのです。これらの子どもを治療している臨床家は、何百回も何千回も反復される活動を見ていることに退屈のあまり死にそうに感じるかもしれませんが、子どもは決して退屈しているように見えません。私の印象では、実際、治療者が退屈している瞬間(それは子どももそろそろ退屈しているはずであることを治療者に警告する)と子どもの反復的活動に起こる微妙な質的変化を非常に細かく見ていけば、子どもは本当に退屈になりつつあるように思えるものの決して明白な形ではそれを見せないことが明らかになるかもしれません。子どもがやり続けるのは、止め方が分からない場合もありますし、他に何をするか想像がつかないので無理にやり続けている場合もあります。また、やり続けるように駆り立てられているときもありますし、私たちに退屈さを引き起こすのが好きなのでやり続ける場合もあります。あるいは、子どもはその特定の常同行為がスリリングであると感じるので、一種の興奮状態でやり続けるときもあります。さらに、子どもはやる気なさそうに考えなしにやっているにもかかわらず、やめずにし続けることもあります。私の考えでは、馴化の欠如が、はるかにもっと詳細に研究される必要があります。 Dawson は、自閉症児はまた実際に馴化した場合でさえ新しい刺激に向かうことができないと指摘しています。子どもが常同行為に急に飽きるこのような瞬間は、治療者に困難ではあるが決定的に重要な技法上の問題を課します。すでに述べたように、いずれにせよこのような瞬間は識別困難です。したがって、治療者が十分迅速に介入してそのような瞬間をうまく利用し、子どもが他に面白い対象があるかもしれないことを分かるのを援助することができる前に、子どもは自分の注意の扱い方を他に知らないことが多いので、このような瞬間はどこかに去ってしまいます。ここで大事なことは、その子どもが単に落胆してしまっているのか、あるいは関心をひく新しい対象を見つけるのを冷淡に拒否しようとしているのかということです。自閉症者は、自分の喚起状態の調節困難に苦しんでおり、これは自閉症者が社会的情報と非社会的情報の両方に注意を向けてそれらを理解する能力、そして究極的には社会的、非社会的領域の両者において適応的に機能する能力に直接影響すると、Dawson は論じています。治療的介入に関する彼女の研究が示しているのは、単純化され予測可能でかつ高度に臨機応変な反応をし、子どもが刺激量をコントロールし、調節することができるようにするような、繊細な関わりの方略によって、自閉症児の他者への注意を増大させることができるということです(Dawson とLewy 1989a)。私にはこれは考察に値する有望な領域であり、治療において重要な領域であるように思われますし、いくつかの点で本書で私が述べてきた、最近の心理療法のさまざまな進歩と近い見解のように思われます。(さらにHowlin &Rututer (1987)を参照して下さい。彼らは、自閉症児を家庭において治療する際に、行動療法的方法を興味深い仕方で拡大しています。) 多くの研究は、人生の最初の数ヵ月に起こる、赤ん坊とその赤ん坊は応答する生き生きといた人間的な養育者との間に、律動的で循環的な、微細なやりとりの無数の繰り返しが起こり、その中において喚起水準の調節が達成されてその基礎が築かれる仕方を示しています。例えば、Stern (1974)や他の研究者は、母親の凝視やそれに付随した声や表情は、全体として乳児の凝視を引き出すのみならずそれを維持することに強く影響することを示しました。Meltzer (1975)が述べるように、注意というものは、「払われる」べきものですし、Klaus &Kennel (1982)がCassel&Sander (1975)を引用して書いているように、「鉄屑をきれいに集める磁石」として働くのは、母親の顔と声と乳房なのです。のちに、いったんこのような体験が内在化されると、磁石の引力は内在化され、内部で表象させるので、健常な子どもは、目新しさを生み出せる生きている対象を見つけることができると期待し、そのような対象と接触をもつように引き付けられます。別の言い方をすれば、気の散りやすさに対抗するのに役立つのは、生きている対象から発せられる引力なのです。器質論者が、神経学的な機能不全の要因と関連させ、またそれと兼ね合わせて、これらは早期のやりとりの効果を考慮しないかぎり、脳の基本的な損傷を自閉症の唯一の病因と見る彼らの仮定は極論とみる必要かもあります。