うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

キース・リチャードの絵本と、【英国の精神力動論者の論文は、抑うつによる崩壊(depressive collapse)といったような、はるかに複雑な心理を援用するものであり、彼らがそれを知らないのは残念なことです。】


 名古屋に早朝に向かおうと、玄関を出たら、電線にハトがとまっていました。バタバタしていたのを、ハトに見られたようで、我に返り、落ち着くように自分に言い聞かせて、駅まで歩いて行きました。(笑)


 休憩に立ち寄った喫茶店に、キース・リチャードの絵本がありました。
興味本位で開きましたが、内容は無かったです(笑)。娘が書いていたり、家族のポートレートがあったり、CDがついていたりがなかったら、誰も買わないでしょうね......。
 ストーンズの伝記を読んだ方がいいかもです(笑)





 電車の中で、本を読み終えました。
最後の2章は、自閉症についての(特に)章になっていて、自分がどうしてもなじめない、3つ組についても書かれていました。
英国の精神分析を知らなかった時には、アメリカのやり方が一番だと思っていましたが、ノースカロライナに行った時に、他の方がABAのことを教えてくれ、日本に帰ってからABAを調べたら、英国発で認知行動療法的なものだとのことだったので、TEACCHと同類扱いをしてしまっていました(ただの無知ですw)。
 自分もそうですが、抗精神薬をいくら服用しても、根本的な原因・要因が解決されないとあまり効果がないように思えるし(利用者さん達を見させて頂いていても)、精神分析的(深い所の)な考え方をしたほうが、根本的な解決に近いのではないかと2年前に勝手に閃いて(笑)その分野の本を調べて、自分の現場に合う本を探し続けています。
 タヴィストックの乳児・幼児観察の本が出ているようなので、次回はまとめて購入しようと考えています。
読みかけの本がありますので、それが終わったら、メラニー・クライン トゥデイの1と2を読ませて頂きます。3はどこを探してもありませんでしたが、しつこく探して行こうと思っています(笑)。



病因論の問題
 〜器質論者、精神力動論者のいずれの理論家たちも、現在では、多元的な因果論を仮定する傾向にあります。もっとも面白い器質論者の多くにとっては、このいわゆる多元性は、純粋に医学的なものではあります。しかしながら、Gillberg (1990)は、神経学的な機能不全を示す自閉症児の行動が、そういった機能不全のない自閉症児の行動と、なんら変わりがないことを示す研究を引用しています。悲しいことに、器質論者たち(Hobson 1990を除く)は、Tustin やMeltzer やReid といった精神力動論にたつ英国の著者たちが、厳密な環境論に固執しておらず、複雑で相互作用的な性質をもつ多元的な因果論を、ただし、彼らの多元的な因果論は心因を含むものなのですが、そういった因果論を仮定していることを知らないようです(Tustin 1981;Meltzer 1978;Reid 1990)。

また、神経学的にも全く障害のない赤ん坊で、関係へと入ってゆく準備が正常に整っていても、かなりひどい抑うつやひきこもり状態の母親に出会うこともあるでしょう。その結果、赤ん坊は、母親の注意をひくことをしぶしぶながら、ゆっくりと、しかし確実に、あきらめ、情動と認知の発達を荒廃させていくかもしれません。こういった考えは、奇抜なものではありません。それらは、イタリアと英国における様々な研究(Di Cagno et al. 1984;Miller et al. 1989:Murray 1991)と、そういった悪循環をもっとよいものに変えることを目指したタビストックでのアンダー・ファイブ・カウンセリングサービスからの臨床的観察と研究に基づいています。相互作用的なフィードバックモデルを生後数日ないしは数週間に適用することで、その子が自閉症状態を呈するかどうかなどの予測的な研究に関する有望な領域が開かれるでしょう。このモデルでは、そういった早期における素因と養育が十分考慮されていますが、結果がそれ自身、恐ろしい力でもって原因にもなるということも、十分考慮されています。多くの臨床家や観察者たちは、乳児-母親関係のなかでそれぞれが、相手に出す合図がますますかすかになり、それに対する相手の反応がますます鈍感になり、赤ん坊の情緒発達に、私が思うには知能にも、恐ろしい影響が残っていくようなフィードバック・システムの結末を見ていきます。(このことが自分と自分の赤ん坊にどのように生じたかについて、Bronwyn Hocking (1990)は、勇気をもって感動的に述べています。)子宮内で胎児が環境の力に反応するさまに関して、臨床的観察と科学的研究が重ねられることで状況はさらに複雑になっていますが、これは自閉症の単純な線形の病因論に対する大事な警告として働くことでしょう(Piontelli 1987;Liley 1972)。(この相互作用的なモデルは、カオスに関する数学的理論と共通するところがあります。その理論は、天候や地震、綿花の価格、心不全、流体力動学の研究に関して非線形方程式を用いるものです。)


自閉症の心理学的な特徴――対象関係の必要性1979年のWingとGould による、Camberwell の35,000人の子どもたちについての壮大な研究で発見された主なことは、自閉症に典型的だと以前は考えられていた3つの特徴は、確かに実際に互いに結びついた3つ組をなしているということでした。それ以来、多くの器質論者たちは、なぜこれらの3つの特徴がそれほど結びついていなければならないのか、それらの底に共通してある特徴は何か、それらを結びつける力は何かを説明しようとしてきました。その3つの特徴とは、(1)社会性の重篤な障害(Kanner の「重篤な自閉的孤立」とは言葉の表現が異なっていることに注意)、(2)言語的コミュニケーション、非言語的コミュニケーションのいずれも非常に難しいこと、(3)ふり遊びを含む想像的な振る舞いの欠落が反復行動によって代替されること、であり、これらはすべて障害(impairment )という概念を含んでいます。純粋に記述的でいくぶん表面的な観点から見ると、「社会性の重篤な障害」は、「重篤な自閉的孤立」と変わらないように見えるかもしれません。しかし、別の観点に立つと、このような記述では、子どもが何でないかということが、実際、その子が何であるかということより優先されていると言えるでしょう。孤立とすれば、それはより個人的なものであり、人間の主観的体験により近いものです。そして、それは子どもの主観的な状態についてのさらなる問いに開かれているところがあります。その子は孤立していると感じているのでしょうか。孤立していることに別のやりかたがあるのでしょうか。何か目に見えないものが、その子を仲間から遠ざけているのでしょうか。その子であることはどんなふうに感じられるものなのでしょうか。その子と一緒にいることは、どんなふうに感じられるものなのでしょうか。そして、これが恐らく最も重要なことなのですが、どのような対人状況のもとであれば、この孤立しているという感情に変化がもたらされるのでしょうか。例えば、治療者のその子に対する感情が変わると、その孤立しているという感情も変化するものなのでしょうか。その子の内的自己-対象関係世界の状態についてのこういった問いは、議論が神経学的に引き起こされた社会性の障害として限定される場合には、生じてくることすらありません。障害という考え方は、ある意味では、欠損(deficit)よりも強いものです。というのも、それは損傷という強力な病因的含みを持っているからです。いずれにせよ、Rutter(1983)は、研究の文献を概観し、すべての症候は、それらすべての基礎にある認知的欠損によって説明されると主張しました。彼が強調したのは、ある能力を混乱して用いることができないというよりは、むしろその能力が欠如しているということでした。そして、彼は、KannerとTinbergenが自閉的なひきこもりと同一性保持を、安全を求める気持ちや恐怖などの心理的動機によって引き起こされたものと考えたとして、批判しました。RutterとFrithは、自閉症の症候を不安に対する抵抗や回避や防衛として説明しようとする精神力動論者傾向をもつと見れば容赦なく批判しましたが、英国の精神力動論者の論文は、抑うつによる崩壊(depressive collapse)といったような、はるかに複雑な心理を援用するものであり、彼らがそれを知らないのは残念なことです。