うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

AICHI AD AWARDS 2017 EXHIBITIONと、【Tustin(1981) は、自閉症児は感覚体験に足るフィルターをかけるメカニズムを欠いていると示唆しています。この欠落を子どもに示すことができるまでは、子どもが最もひどい状態にある時には、私たちの方が子どものために、何らかのフィルターを提供せねばならないかもしれません。】


 今日は、名古屋に一日いました。
愛知県庁に行く用事がなくなったので、アレクサンダー・テクニークを受けた後、ナディアパーク・デザインセンタービル4階のデザインギャラリーでやっていた、『AICHI AD AWARDS 2017 EXHIBITION』を見て来ました。http://www.idcn.jp/archives/custom_event/aaa-2017-2

 全体的に和を意識したデザインが多く、若いクリエーターさんたちも頑張っているな!と少々焦りも感じながら(笑)見させて頂きました。
何年か前に、デザイン系の雑誌で、杉浦非水先生に美大で教えてもらったが、全然勉強にならなかったって言っていたデザイナーがいましたが、『非水百花譜』は誰が見ても素晴らしいし、大きな銀行のセレブ相手(自分には関係ないですが.......(笑)。自分が非水が好きだと知っている方が何冊か見せてくれました)の冊子の表紙にも採用されていますので、そのデザイナーは本当に物を見る眼がないんだなと(笑)思ってしまいました。
 絵画などの作品も、岡倉天心先生が茶の本で書いていたように、目でなく、耳で作品を観ている.......。そのデザイナーの上から発言を思い出した時に、その言葉を思い出しました。直接には関係ないですが(笑)。


 昨日のニュースで、名古屋がえらいことになっているのを見て、大丈夫かな?と思いながら行きましたが、限られた地域だけだった様子。局所豪雨だったのでしょうか?
帰りは、ナディア・パークから歩いて名古屋駅までいきました。






 電車の中で沢山、本を読ませて頂きましたが、アップは先日読んだ箇所です。

 下記は、現場でも痛切に感じることですね......。


『Tustin(1981) は、自閉症児は感覚体験に足るフィルターをかけるメカニズムを欠いていると示唆しています。この欠落を子どもに示すことができるまでは、子どもが最もひどい状態にある時には、私たちの方が子どものために、何らかのフィルターを提供せねばならないかもしれません。』



パースペクティブ
 ロビー、アレッサンドロ、ハリエットの例は、患者を体験により近づけることが、心理療法の技法に含まれているような状況です。他方、精神病患者や、精神病的なエピソードのなかにある境界精神病者が、あまりにも多く、感情に圧倒されていると感じているような場合には、問題はまったく別です。そういう場合は、患者は体験から距離をとる手助けを必要とします。観念があまりにも遠くにある場合、拡充すること、必要かもしれませんし、それが、パースペクティブ、両眼視、アルファ機能を働かせる上では、あまりにも近くにありすぎる場合、包容することと距離をとることが必要かもしれません。そういった患者は疑いもなく、生きている状態にありますし、その問題は、死の恐怖に圧倒されていると感じているということです。U医師は、9歳が境界水準の自閉症の少年(a borderline autistic boy)に、治療のため週4回会っていました。ある時、いつもの部屋が騒がしい子どもたちのグループに取られていたため、彼女は別の部屋で彼に会わねばなりませんでした。自閉症児は、その硬い人格ゆえに、時間や会う場所の変更によって、とくに混乱しますし、不運なことに、彼らの臨時の面接室のある同じ廊下で端で、その騒がしい音は起こっていたというさらなる問題がありました。彼らがいたのは廊下の反対の端でしたが、その子はパニックを起こしはじめました。治療者は、彼がなぜ混乱しているかといった解釈を、たとえば、嫉妬している、あるいは部屋の変更によって混乱しているといったことを聞く状態にはないと感じました。彼女は彼のパニックが昴じて統制不能になるのを見て、断固としてしかし穏やかにこう言いました。「ジュリアン、騒がしい音は外にあるのよ」。より重篤でない、神経症的な子どもにはほとんどあるいはジュリアンでももっと圧倒されていない状態にあれば(彼はただ境界水準で自閉的だったのであり、治療のおかげで非常ですよくなりました)、彼女はこう言ったかもしれません。「ジュリアン、あなたはその騒がしい音を、本当はそれがある廊下の端っこに置いておけないようね」。しかし、その時、ジュリアンは明白な結論を引き出せるに足る自我をもっていないように見えました。精神病の子どもそしてもっとも精神病に近づいている時を境界例の子どもたちはこうしばしば、自分に言われたことの含み(implication )を理解することが困難です。考えは、それがまさにそういうものであると認められるまでは、考えられないのかもしれませんし考えは単なる考えであって、騒音はだった騒音なのです。ロビーは、しばしば大きな音に対してたとえば掃除機の音、タクシーがエンジン音などそれが何であれ、恐怖で立ちすくみました。彼は、頭を覆い、「音で頭が壊れる」と言いました。Tustin(1981) は、自閉症児は感覚体験に足るフィルターをかけるメカニズムを欠いていると示唆しています。この欠落を子どもに示すことができるまでは、子どもが最もひどい状態にある時には、私たちの方が子どものために、何らかのフィルターを提供せねばならないかもしれません。そうでなければ、その子は耳に傾けるにはあまりにも打ち砕かれた状態にいることになるかもしれません。ロビーは地下鉄が遅れたせいで時々セッションに遅刻しましたが、そのおり、彼はして打ちのめされ、絶望して、本当に暴力を振るいかねないぎりぎりのところにいました。(これは治療彼のひきこもりがずいぶんなくなった一方、セッションに定刻に来ることに彼が強迫的になっていた時のことです。)私が学んだのは、彼がなぜそれほど取り乱しており、怒っているのかについて話すのは時間の無駄だということでした。彼が必要としていたのは、いかに彼が気が動転しているかを私が理解したことを示すことでした。患者が考えられない時には、「なぜ」よりも「何が」が先行しなければなりません。