うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、 今日の投げ入れと、【Bion は、すでに述べたように、夢を単なる過去を書き換える試みだとみなすべきではないと示唆しました。私たちは、それを今現在生きられて人生の出来事や体験としてみなすべきなのです。】


 今日の日中は、近くのセメント会館に、かき氷を食べに行ったようです。親分から写真が送られてきました(笑)
 毎日暑いので、毎日食べたいですね....。
中々美味しいかき氷だったようです!




朝のひーひー王子との散歩は、いつもと違う道を歩いてみました。
山の斜面にあったものを頂いて来て、投げ入れましたが、置く場所に迷っています(笑)


 今日は、公私共に多忙で、しかも初めてのショートの方の夜勤を親分から指名されたので、今から外出して、そのまま夜勤に入ります。
いつもより早いですが、アップする時間が今しかないのでアップさせて頂きました(笑)

 下記は、クラインやクライン派周辺の論文や本を訳されておられる方が、強調されている『今、ここで』を思い出させてくれるように感じました。
暫くは、クライニアン生活を送りそうです(笑)



Klein は投影同一化の過程について、古典的な論文を2本書きました。1本目の論文(Klein 1946)では、人はどのようにして自分の人格の望まれない悪い部分を他の誰かの中に追いやるか、またさもなくば、望まれない、価値の高い良い部分を同じようにしてしまうか、ということが述べられています。彼女は、そのような分裂と投影によって自我がどのようにして貧弱にさせられていくかを示しました。しかし彼女はまた、別の種類の投影同一化(別の名前が付いていればと私は思いますが)について書いています。これは、人が誰かのアイデンティティの中に侵入的侵略的な方法で入り込み、ほとんど完璧にそれを引き継いでしまう、という投影同一化です(Klein 1955)。 誰しもが、先生が教えることにただ単に影響されているだけではない学生に出会ったことがあります。そのような学生は、先生の歩くように歩き、話すように話し、先生の癖をまねます。この現象はそれを目撃した人やその対象である人にイライラと不快感をもたらすもとです。このような状況では、その先生はまるきり剥ぎ取られていくかのような感覚を持ちえます。Klein 派ではこのタイプの同一化と、より健康な種類のものとを注意深く区別します。このより健康な方は時に「摂取同一化」と呼ばれ、そこでは人は賞賛する対象と同一化するかもしれませんが、違いが認識され尊重されているのです。「摂取同一化」においては新しいアイデンティティは盗まれるものではなく、大事に扱われた友好的な対象からの贈り物としてもたらされたり、受け取りさえするものなのです。
 しかし、投影同一化が優勢で不安定に状態から、より健康な同一化への発達の過程、すなわち他者のアイデンティティを盗むことからそれをありがたく用いることへの発達はどうなっているのでしょうか。この間にはどのような段階があるのでしょうか。また、子どもが賞賛し理想化している人物が遠すぎて手が届かないように見えて、自分がなれるかもしれないと想像するにはあまりに絶望している状態から、その可能性を想像しはじめるような状態への子どもの発達についてはどうなっているのでしょうか。そのような子どもは、投影非同一化(unidentification)の状態から、新しい同一化をためらいがちに試着しているような移行状態へと移りつつあるのかもしれません。盗んだのではなく、ただ単に借りてサイズ合わせのために試着しているアイデンティティについてはどう考えたらいいのでしょうか。 Bion は、すでに述べたように、夢を単なる過去を書き換える試みだとみなすべきではないと示唆しました。私たちは、それを今現在生きられて人生の出来事や体験としてみなすべきなのです。しかしながら、私たちはまたそれをいくらかは未来の予期であると見なすこともできると、彼は述べています。私は、ある幼い男の子の患者を担当していました。その子は、自宅の庭で化石を見つける夢を見て、目覚めたとき「ただの夢だったんだ」と大変悲しみました。なぜなら彼が言うには、いつも歴史の一端に実際に触れたいと思っていたから、でした。Bion は私の患者の夢や他の類似した夢について、「ただの夢」ではないと考えました。すなわち、子どもっぽい無力さを必ずしも否認するのではなく、その代わりに未来に大人になっていることを予期しているとみなせる、ということです。この未来志向的要素はなくJung の理論の中では重要なものであり、Bion よりずっと以前にそれについて書かれています(Storr 1983参照)。Jung について言及している2冊の本の中に、マスクは見せかけとして使われるのではなく、新しいアイデンティティを実験し試着してみるものとして使われる、とあります(Muir 1987;Wells 1985)。このタイプの同一化には、Winncott の「移行」という用語を利用するのが役に立つと思われますけどさらにもう一歩先に進めて、「予期」同一化といったような用語を使うことにより、未来の要素と可能性を強調するのも必要かもしれません。