うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

血圧計の使い方と、【「遊びの中では子どもはいつも自分の普段の精神年齢を越えて、自分は日常の行動よりも年長のようにふるまうし、遊びの中で自分は実際よりも頭ひとつ背が高いかのようにふるまう。虫眼鏡の焦点範囲の中にいるように、遊びは全ての発達的傾向を凝縮した形で含んでおり、遊びは発達の主要な源泉である(Vygotsky 1978:102)」】


 昨夜、夜勤時に発作がある方の体調が悪く、うたたねの看護師さんが、直ぐに来てくれました。
大事には至りませんでしたが、シッカリした看護師さんがいてくれるというのは、利用者さんにとっても、職員にとっても安心です。
 落ち着いたら、皆さん看護師さんの道具が気になって(笑)使い方を習っていました。
でも、中々上手く使えませんね(笑)


 夜勤明け、体を追い込みに行く前に、うたたね横のファミマでコーヒーを飲みながら本を読みました。
体を追い込んだ後は、栄養士さんの話を聞いて勉強して、豊橋まで用事で出ていました。
 用事と用事の間も鬼のように(笑)本を読ませて頂いてました。
本の方は、第15章まで来て後、第16章を残すのみとなりました。本当に勉強になっています。
 明日は休みですが、用事を作ってしまい、後悔ばかりしています.......。


〜さらに他の臨床素材に戻る前に偉大なロシアの心理学者であるVygotsky の研究との関連について考察することは役に立つかもしれません。彼は、「遊びの中では子どもはいつも自分の普段の精神年齢を越えて、自分は日常の行動よりも年長のようにふるまうし、遊びの中で自分は実際よりも頭ひとつ背が高いかのようにふるまう。虫眼鏡の焦点範囲の中にいるように、遊びは全ての発達的傾向を凝縮した形で含んでおり、遊びは発達の主要な源泉である(Vygotsky 1978:102)」と指摘しました。Bondioli とAchinto とSavio は、この意味でVygotsky は遊びの中に潜在的発達の創造を認めている、と指摘しました(Bondioli,Achinto and Savio 1987)。実際のところVygotsky は、遊びには退行的な遊び、すなわち子どもが実際よりも頭ひとつ小さく振る舞ったりが赤ん坊の真似をして遊ぶといったものもあることを省いていますが、それでも遊びの前向きな性質を指摘したのは興味深いことです。学習の分野で彼は、大多数のテストは発達の果実としての成熟した機能を測定しているが、私たちはまた発達の芽や花を測定するべきである、と指摘しています。前者の測定は心の発達を過去を振り返る形に特徴づけ、後者の測定は未来を予期する形に特徴づけます。後者は「現在のところ形成の途上にあったり、成熟と発達が始まったばかりの過程を考慮します。」子どもの心の発達の状態は、現実の発達水準と「発達の最接近領域」の2つの水準の明確化によってのみ決定される、と彼は主張しています(Vygotsky 1978)。
 Betty Joseph は、患者の自己の部分部分を入れる容器としての分析家というBion の概念を用いて、分析家は患者の知性さえ抱えるように仕向けられるかもしれないと示唆しています。また私自身が驚くべきことと思っていることは、患者に何を考えているのですかと問うと、患者が自分の心は完全に空っぽだと言うのを聞かされ、それからもし私が機転をきかせて、患者に、私が何を考えているとあなたは思いますか、と尋ねたら、彼の心は色々な考えでざわざわしているのを発見する、ということです。そのような子どもは、知性と活動的な心の生活を持っているかもしれませんが、不幸にもそれを分裂させて他者の中へ排除しているのかもしれません。しかし、慢性的に抑うつ状態だったり常に虐待を受けていて人格のある側面は決して適切に発達させられていない、より重篤な子どもたちについてはどうでしょうか。そのような子どもたちには、彼らのために希望や信頼を担ってくれる対象が、必要なのかもしれません。それは、子どもたちがかつては自分に属していた何かを投影しているからではなく、彼らの中には十分な希望が真に発達してきておらず、今までのところ彼ら自身が希望に耐えられないからなのです。そのような子どもたちは、未来という感覚をほとんど持っていないかもしれません。彼らは、閉ざされた扉と灰色の空をいたるところで眺めているかもしれないのです。彼らがヒーローのようになることは、不可能な夢のように思えるかもしれません。彼らはしばしば、自分自身のことを大変愚かで醜いと思っています。私たちはあえて嘘の約束や盲目の元気づけを提供したりはしませんが、光の最初の瞬間に敏感であり気づいていなければなりません。というのは、子どもがそのような気づきを自分自身の中においておくのを許容できる以前に、それがまず私たちの中に起きうるかどうかを発見する必要があるかもしれないからです。