うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんは先に寝ました(笑)と、【逆転移の体験は、分析家が自分自身がひとつの投影の対象であるときとそうでないときとを識別できるようにするはっきりした特質を含んでいると私には思える。いかに認識するのが難しいものであろうと、誰かほかの人の空想のなかである役割を演じていくよう操られていると分�


今日は、朝から豊川の施設の方に相談しに行ったり、昼からはうたたねに、あいちアールブリュット・センターの方々が、アトリエ・カーグの作家たちの作品を見に来てくださったりと、バタバタしてしまい、あいちアールブリュット・センターの方々を、大分待たせてしまいました...。本当に済みませんでした。

 非常に疲れていましたが、京都時代にバンドに誘ってくれた、中井道仁先生(少林寺拳法の達人です!)が、体調が悪い時ほど、体を動かすと言われていたのを思い出し、夕食後、ジムに行き、いつものルーチンをこなしてきました! いってよかったです(笑) 非常にすっきりしました!

 色々用事をこなしていたらもうこんな時間ですね....。
気が付くと、ねこさんは寝ていました....。




 本は今日も、早朝にファミマで読みました(笑)投影同一化だけでも、一生かかりそうですね(笑)



米国の分析家のあいだでは、投影と投影同一化の違いが長く討論されてきています(なかでも、Malin & Grostein 1966,Ornston 1978,Langs 1978,Ogden 1979,1982,Meissner 1980,Giannotti 1981 参照)。これらの討論では、投影と投影同一化の区別のもっとも一般的な基本は、その投影の受け取り手が投影者的空想と情緒的に影響されているかどうかと考えられています。この強調点はビオンの業績から派生しています。しかしながら、ビオンはクラインと同じように投影同一化をひとつの空想と考えていました。確かに、クライニアンであろうとなかろうとほとんどの分析家は、患者たちが彼ら自身の心から思考や感情を文字通り取り出したり、それらを分析家の心のなかに具体的に押し入れたりをしないことに同意するでしょう(Sandler 1987参照)。しかしながら、多くの例で、投影をしている人物はその投影者の空想に適う感情を分析家(もしくは、別の投影の受け取り手)が抱くような風にふるまうし、ときには受け取り手がその感情に基づいて行動するよう圧迫されていると感じることをビオンは示しています(Bion 1959,本書に転載)。しかし、投影同一化は用語をそのような例に限定することはこの概念の有用性を大きく減退させますし、いずれにせよ、それではクライン自身がそれによって意味していたことにまったく反してしまいます。英国の見解は、受け取り手が情緒的に影響されるケースとされないケースの両者を含みうるほどに広い一般的な概念として保たれるのが最良であるというものです。けれども、投影同一化のさまざまな亜型を描くのに、識別のための形容詞を持つことは役に立つようです;“喚起性”evocatory は、受け取り手が投影者の有用に適う感情を抱くようにとの圧迫にさらされている種類の投影同一化を描くのに使えましょう。 この概念を使うなかで出てきた問いのほとんどは、同じ答え方でもっともうまく答えられます。すなわち、いろいろな亜型を分けられる大きな概念に関した用語として使うことによってです。投影同一化の多くの動機――対象をコントロールすること、対象の属性を手に入れること、よい性質を保護すること、分離を避けること――すべては大きな傘のもとでもっとも役に立つように保たれるでしょう。 第2巻[原書―訳者注]で詳しく検討されていますが、投影同一化についての考えは、なかでもビオンの業績のおかげで、転移や逆転移の力動についての私たちの理解を前進させました。投影同一化のさまざまな側面についてのビオンの検討は、1950年代のいくつかの論文(1952,1955,1957,1959ここに再掲載)に述べられています。投影同一化を通して分析家のなかにさまざまな情緒を湧き上がらせる患者の能力を力説するなかで、投影同一化の防衛面と同様にコミュニケーション面を彼は力説しています。もっとも、ジョセフが指摘していますように、分析家の反応こそが患者の投影同一化をコミュニケーションや理解に変えることができたり、それに失敗したりするのですが(Joseph 1987ここに再掲載)。分析家としての彼自身の中への投影のコミュニケーション性の影響についてのビオンの初めての記述は、集団との作業での議論(1952)のなかに現れています;



  逆転移の体験は、分析家が自分自身がひとつの投影の対象であるときとそうでないときとを識別できるようにするはっきりした特質を含んでいると私には思える。いかに認識するのが難しいものであろうと、誰かほかの人の空想のなかである役割を演じていくよう操られていると分析家は感じる」(Bion 1952)