うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、【彼の心は完全に過去に占拠されていました。もし、未来と呼ぶものがあったとしても、彼は知らなかったし気にしていませんでした。それは否認よりもはるかに病んでおり、未来があるべき場所には単に空白があるように思われました。】


ショートさんは、昨日だけ居られず、今日から再スタートです!
お盆なので、お昼はいのうえっちのリクエストで浜松に行き、夕食は、まりちゃんリクエストで、はま寿司に行きました。
 夕食のはま寿司は、一人10皿までだったのですが、10皿平らげたのはまっちゃんだけでした(笑)
いのうえっちは、9.5皿(笑)0.5皿はおっちゃんが頂きましたが、おっちゃんは7皿(それを入れると7.5皿w)でした。
 写真は、まりちゃんが9皿で悔しそうだったので.......おっちゃんの1皿分をプレゼントして、200円のデザートをお持ち帰りした物です。
おっちゃんの3皿分は、1皿はまりちゃんへ、後2皿分は、いのうえっちと、まっちゃんに厚焼き玉子を一つづつプレゼントさせて頂きました。
 おっちゃんは、7皿でお腹いっぱいでした。


 帰宅後、少し息抜きに姫島漁港に行きました。
日は落ちてしまった後でしたが、名残りの夕焼けがきれいでした。
 今日も一日、何事もなく過ぎた事、皆様に感謝しています。



 浜松から戻り、いのうえっちのリクエストで、すろーじゃむの大きなお風呂に入りに行き、おっちゃんも汗が酷かったので、三人で大きなお風呂に入りました(笑)が、
自転車で帰宅したらまた汗が珠のように流れたので、散歩後、シャワーを浴びました。

 今日も早めに出て、うたたね横のファミマでコーヒーを頂きながら、本を読ませて頂きました。
下記は、その時読んでいた箇所です。
 毎日、深い所まで入って行け、勉強出来ることも、皆さんに感謝しています。



第14章 途方もない夢と嘘――抑うつ的な子どもにおける憧れと同一化

 ロビーの心について私が驚かされ続けてきたことの一つに、未来という概念が心の中には全く存在していないということがあります。〜
〜彼の心は完全に過去に占拠されていました。もし、未来と呼ぶものがあったとしても、彼は知らなかったし気にしていませんでした。それは否認よりもはるかに病んでおり、未来があるべき場所には単に空白があるように思われました。〜


しかし、開かれた未来や、確かな未来や、そこに人を引きつけ勢いよくそこに向かわせるような場所という考えは、全くなじみのないものでした。続いて私は、他のより被害妄想的で精神病的な子どもにはこの概念が存在していないという印象や、抑うつ的な子どもにはこれが適切に発達、いないという印象を持ちました。精神分析の技法は、元々は過去に強調点をおいていたのですが、長い道のりを経て、分析家と患者の現在の関係の中で今ここで起きる生き生きとした転移事象に対して多大な関心を示すあり方へと変わってきています。さらにいえば、慢性的に抑うつ状態の子どもたちと臨床の仕事を行う上では特に、これらの従来取り上げてこられなかった空想の重要性もまた考慮する必要があるかもしれません。人間の本質の中の、未来志向で、前向きである向上心にあふれた要素は、Jung 派の分析理論やMargaret Lowenfeld の考えやVygotsky の心理学において、常に重要なのです。 Klein は、病的な抑うつを防衛するのとは異なり、それを克服する過程の中心に、喪と償いは位置すると示唆しました。本章では夢をもつ能力も、病的抑うつを克服する途上での重要な段階であるかもしれないことを示したいと思います。栄光に満ちた夢や崇高な夢は、過去や現在における痛みに満ちた喪失や恥に対しての防衛にしばしばなっているのはもちろんですが、それらは別のものである場合もあります。それらは、通常の発達において、また通常の子どもの空想生活と遊びにおける、生き生きさせる力を持つ不可欠な構成要素である、と私は考えるに至りました。つまり、それらは発達的に不可欠なものです。 しかしながら、剥奪児あるいは深刻な抑うつ状態の子どもは、そのような空想を持つことができないかもしれないし、そのような空想を持っていると想像することがほとんどできないかもしれません。このため、親対象として機能する心理療法家は、そのような空想を受容したり共有したりする心の準備があるだけでは不十分なのかもしれないのです。というのは、抑うつ状態の子どもはそれらが欠落しているかも知れないからです。それらの空想が現れ出るときは、初めは子どもの心の中にではなく、ある種の投影同一化(別の名前を付けた方がよいと私は思います)を経由して、治療者や教師や養育者の心の中にまず現れ出る必要があるのかもしれません。子どもはそのような時尊大な空想を持っているように見えるかもしれません。というのは、空想の内容が尊大だからです。しかし、実際のところ子どもは抑うつ的すぎて、尊大にはなれない状態かもしれないのです。彼は確信がなくて、誰か他の人がその空想を自分のために持ってくれるのかどうかを、ためらいがちに、おそらくははじめて、試そうとしているのかもしれません。その過程は、真に躁的で自己愛的な子どもから発せられる真に尊大なコミュニケーションと似ているかも知れませんが、実際にはたいへん異なるかもしれません。 私が示唆しているのは、明らかに快楽に満ちた尊大でほらだらけの空想が、たとえ嘘や操作的な圧力だとしても、ためらいがちで控えめな類の希望の種を含んでいるかもしれない、ということです。これは真実に対する裏切りや嘘との共謀に必ずしも巻き込まれているとは限らない、治療者による受容的包容を要求するかもしれません。そのような「嘘」は、子どもの憧れという領域と、通常の子どもの場合なら子どものために憧れてやることができるであろう、親対象との関係において、発達上の欠落があることを表現しているのかもしれません。治療者に向けられたそういった嘘や作話のようなコミュニケーションは、しばしば投影同一化と呼ばれますが、予期同一化(anticipatory identifications)と名づけた方がよいのではないかと思われます。それは、人間の発達、特に子どもの発達における、未来志向的で前向きの要素に正当的な重みを与えるものなのです。予期の概念はBion(1980)の後年の仕事から借用したものですが、その同一化がためらいがちなものであることを指し示しています。それは、その内容が明らかに尊大であるために覆い隠されてしまいやすいかもしれません。