うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

マウンテン唐揚げ定食と、【このような「喜ばせる」とか「喜びを与える」といった時こそ、境界例や剥奪された患者の多くが、自分自身の中にそのようなことと起こせる力を持っているとは想像できないように思われる時なのです。】


 今日も日中は、うたたねにしては賑やかでした。
昼食は皆さんと外食に行きましたが、一番若い方が、マウンテン唐揚げ定食なるものを注文されて、ちょっとびっくりしましたが(笑)三つ残されただけで(15時にそれも食べられました....)平然と食べられました....。
 そういえば、自分も若い時分は、びっくりするほど食べていましたね(笑)



 今日も早めに出て、ファミマでコーヒーを頂きながら、本を読みました。
昨日に引き続き、現場に直結している様な記述の様に感じました。

 下記は、支援者がその様に感じることができたら、重度の方々の心に触れそうな気もします。


『このような「喜ばせる」とか「喜びを与える」といった時こそ、境界例や剥奪された患者の多くが、自分自身の中にそのようなことを起こせる力を持っているとは想像できないように思われる時なのです。例えば、健常な子どもが初めて固形物を食べるとき、または初めておまるを使うときさんスプーンを使うとき、歩くことを覚えるとき、生後数週間の頃母親が見つめるのを単純に見返したとき、乳房にうまく吸い付けたとき、その出会いの中で赤ん坊は、よいものと喜びを受け取る自分の力を感じるだけでなく、それを与える力を持っていることを感じる、と私は信じています。』




私はここで、償いへの衝動が生まれる、さらなるいくつかの可能性について調べたいと思います。ここまでは罪悪感に関して愛情と憎しみの間のバランスだけが重要な条件ではない、ということを私は示唆してきました。Klein は「幼児の情緒生活についての二、三の理論的結論」の中で、「償おうとする傾向は究極的には生の本能に由来しているため、それはリビドー的空想と欲望の上に成り立つ(1952:74)」と述べています。では、どのような意味で、償おうとする傾向は生の本能に由来していると考えられるのでしょうか。もし償おうとする傾向が、損傷した対象をなおしたいという願いを含んでいるのなら、この衝動は生より早期の発達段階における、すでに良い段階をさらによくするという傾向のよって部分的には育まれたものであり、またその傾向に基礎をおいているものであるかもしれない、と私は示唆したいと思います。この考えにとって役に立つ例は、赤ん坊の早期の微笑みです。この微笑みは両親に喜びをもたらすことはよく知られています。Brazelton やStern のような研究者は、母親と赤ん坊の間の繰り返し起きる相互作用に見られる強度曲線を研究しています。そして、両者がその強度を高めること、さらにそれを減少させたり増加させたりすることに少しずつ寄与するやり方を示す肯定的なフィードバックの循環についても研究しています(Brazelton et al.1974;Stern 1985)。彼らが母親の抑うつを癒すものとして赤ん坊の微笑みを研究したかどうかは知りませんが、乳児を詳細に観察したことのある人にはよく知られている現象です。しかしながら、彼らは赤ん坊の微笑みを、抑うつ状態の母親を元気づけるためでもなく、死んだ対象に命をもたらすものでもなく、おそらくはすでに喜びを与えられて生き生きとしている対象にさらなる楽しみを与えるものとして役立つ、と描写しているように思われます。 このような「喜ばせる」とか「喜びを与える」といった時こそ、境界例や剥奪された患者の多くが、自分自身の中にそのようなことを起こせる力を持っているとは想像できないように思われる時なのです。例えば、健常な子どもが初めて固形物を食べるとき、または初めておまるを使うときさんスプーンを使うとき、歩くことを覚えるとき、生後数週間の頃母親が見つめるのを単純に見返したとき、乳房にうまく吸い付けたとき、その出会いの中で赤ん坊は、よいものと喜びを受け取る自分の力を感じるだけでなく、それを与える力を持っていることを感じる、と私は信じています。