うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんと、【その治療者は、彼の損傷を受けていない部分にどうしても届かないのではないかといった、幻滅と希望のなさについての自分の逆転移感情を考える作業を通じて、彼の倒錯したあざけりと彼の純粋な絶望との両方に気がつき始めています。】


 今日は休みだったので、ゆっくりしようと思っていましたが、高浜まで行く用事が出来たので、行って来ました。
近いようで、遠いですね.....。
 帰宅してから、メールチェックしていたら、このところ毎日来る(笑)ピンタレストも覗きました。
お笑いのカテゴリーを見たら、登録していないカテゴリーも沢山入る様になり(笑)迷わず(笑)お笑いの方に進んみました(笑)
 おもしろいねこですね!

 うちの、ねこさんは、相変わらずです......。


 親分の車のオイル交換を昨夜お願いして、朝に歩いて車を取りに行き、親分の夜勤明けの迎えまで時間があったので、うたたね横のファミマでコーヒを今日も飲みながら(笑)本を読んでいました。夕方、自分の受診待ちの時も本が読めました。

 アップは、昨日読んだ箇所です。
下記は、全て支援を考える上で、必要な視点ではないでしょうか?(ケースによりますが)


その治療者は、彼の損傷を受けていない部分にどうしても届かないのではないかといった、幻滅と希望のなさについての自分の逆転移感情を考える作業を通じて、彼の倒錯したあざけりと彼の純粋な絶望との両方に気がつき始めています。



彼は塗り絵を「線からはみ出る」ことのないよう苦労しながら塗ることさえはじめています。これには6日間かかり、治療者は、彼の行動上の変化が治療者との間でも「線からはみ出さ」ないよう願っていることについて、解釈しています。彼女は彼の強迫的な償いを、真の償いに対する防衛だとは見なさず、その代わりに絶望的な破壊性に身を任せることを乗り越える発達と見なしたのです。



彼の有頂天さには喜びがない、と感じました。治療者と私は以下のことの可能性について話し合いました。つまり、これは彼が抑うつを否定しているからではなくて、彼が純粋な安堵や純粋な自尊心や純粋な喜びをほとんど取り入れられず、また表現もできないからだという可能性です。



とりわけ彼は、生後1年間の間に何度もまさに命の息吹すなわち酸素供給が危うくなった子どもでしたので、その根源的レベルでの連続性、流れ、完成です満足といった概念はおそらく彼にとってはなじみのないものでした、彼の対象に対する感覚と自己に対する感覚との両方は際限なく寸断されうるものに思われました。彼が揺るぎない安定性を感じ始めるにつれて、何かもう少し堅固なものが成長し始めたと考えます。彼は、治療者が自分のシニカルな魅力に誘惑されないよう拒絶することや、破壊的な自分を拒絶しないことや剥奪自分の絶望だけでなく率直さや直接性や希望の小さな芽生えに注目しようとする治療者の意志の中に、安定性を感じ始めたのです。



患者が感じた「何か早く直した方がいい」という感じは、恐れと罪悪感が交錯した気持ちですが、注意を促される必要があります。そうすれば患者のはかない気づきの瞬間を見逃すことがないでしょう。そのような患者は、以前の心を硬化させた状態にあまりにも簡単に戻ってしまいうるのです。