没になった写真と、ちょっとお笑いをと、【限界を設定できず、自制をいくらか発達させる助けとなったはずのある種の要求をつきつけなかったように思われます。】
8月になり、今日は一日、事務仕事で頂いていましたが、副理事長の訪問などがあり、少しバタバタ。
副理事長のありがたい話と励ましで、少し元気を頂きました!
アートや音楽の話にもなりましたが、丁度、話が終わって戻ろうとしたときに、アールブリュット関係の方から連絡があり、親分が対応していました。もっとアートに首を突っ込んだらいいのに.....と、10年くらい思っていますが、やり方が分からないのでしょうか?
自分が何とか少しずつ繋がりを作っていかないといけないのかな?とも思い、少しずつですが動き始めています。動き出したら親分に全て振るつもりです(笑)
写真は、没になった写真が、整理していたら出てきたので、敗者復活していただきました?(笑)
ちょっと疲れ気味なのか(そんなことないかw)相変わらず元気がでないので、また面白いものを見ていました(笑)
ピンタレストですが.....。
くすっと笑えました!
何とか給与計算はできました!
社会保障が変わった!とニュースで頻繁にやっていましたね。払える能力がある方には、是非とも払っていただきたいですね......。
今日も早目に出て、ファミマでコーヒーを飲みながら本を読みました。最近、長い時間読むことができないので、ぼちぼちになっていますが、キャパが狭いので、それくらいが丁度いいのかも知れません。(笑)次回は、もっと真に迫ります。
下記は、支援者も気をつけなければいけないことですね!
『〜この母親が子どもに償いをする機会を与えることができると今までに本当に感じたことがあるかどうか、むしろ、子どもの罪悪感が増して行く無力で何も導き出せない方法ばかりでやってきたのかどうか、ということを推測してみるのは興味深いことです。彼女は罪悪感を刺激することはできましたが、子どもをしっかりと扱えなかったように思われますし、限界を設定できず、自制をいくらか発達させる助けとなったはずのある種の要求をつきつけなかったように思われます。〜』
特に『限界を設定できず、自制をいくらか発達させる助けとなったはずのある種の要求をつきつけなかったように思われます。』の個所はそう思います。
〜『愛、罪、そして償い』の中で、Melanie Klein は、学校生活は対人関係の新しい実験のための場面を与えてくれるかもしれない、と指摘しています。通常の規模の家族にいる同胞の数より多い子どもたちの中から選べる状況下では、Klein いわく、その子特有の気質に兄弟姉妹よりもよく反応してくれる一人か二人の子どもを見つけるかもしれません。これらの新しい友情は、うまくいかなかったかもしれない兄弟姉妹との早期の関係を、やり直し改善する機会を子どもに与えるかもしれません。実際の兄弟姉妹との関係はそれから改善するかもしれない、とKlein は続けて指摘しています。例えば、子猫を世話したいという子どもの願いはそれから躁的償いの一種であるということができるかもしれません。つまり「親切は身近なところから始めよ」というように、その子が家族とよりよく接し始めた方がよかったかもしれないということです。これはおそらく、新しい活動が起こるかもしれない躁的気分と状態の、正確な記述でさえあるでしょう。しかし、もしそれが成功して結果が上々であった場合には、もともとの対象との新しい関係により希望を持って子どもが戻っていきやすくなるかもしれないのです。実際、Klein は次のように付け加えています。「新しい交友関係は子どもに自分が愛し愛されうるものであると確証し、愛情と善良さというものが存在することを確証します。これは、想像上または実際に他者を傷つけたのを償うことができる、という確証であると無意識に子どもが感じているのです(Klein 1937:328)」。 大変要求がましい子どもが、彼女の治療者に次のように言いました。私が家でむちゃくちゃなふるまいをしていると、自分の母親は、もしこれが続くなら、おそらく精神科の病院から入院することになる、と絶望したようにきっと言うだろう、と。この母親が子どもに償いをする機会を与えることができると今までに本当に感じたことがあるかどうか、むしろ、子どもの罪悪感が増して行く無力で何も導き出せない方法ばかりでやってきたのかどうか、ということを推測してみるのは興味深いことです。彼女は罪悪感を刺激することはできましたが、子どもをしっかりと扱えなかったように思われますし、限界を設定できず、自制をいくらか発達させる助けとなったはずのある種の要求をつきつけなかったように思われます。対象の償い可能性すなわち、償いの衝動に対する受容力は、どんなに小さくても偽装されていても置き換えられた形であっても、境界例の患者との臨床の仕事において特に重要です。このような患者には、この問題についての意識的あるいは無意識的な絶望が存在します。〜