うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

才能を花開かせる職員と、ブドウと、久し振りのお薄と、軽い熱中症と、【普通に波長を合わせる鋭敏な母親たちが。自分が行っていることに気づかぬままに、小さな赤ん坊に、生後第一週から、そして生涯を通してずっと提供するのが、この自己観察に積み重ねなのです】


 うたたね最高齢(すみません.....)の職員さんは、利用者さん達の才能を花開かせることが得意です!
今日は、はるちゃんと一緒に音楽に合わせて踊っていましたし、Kさんが絵を描いたり、字を書いたり出来るというのを引き出したのも彼女でした。
 よく見て下さっているのでしょうね!



 今日は、朝から賑やかだったので、遅番(12時から21時)でしたが、9時から現場に入らせて頂いていました(勝手にw)。
お昼ご飯の意見が分かれ(笑)マックの人と先にマックに行き、時間をずらせて、アプレシオに行きました。
 うたたねで昼食を食べられた方もいました。
午後のドライブは、暑かったので、渥美のアイスクリーム屋さんに行って来ました。
お客さんが沢山いて、大分待ちましたが、何とかありつけ(笑)みなさんで食べて来ました!
帰りにすろーじゃむに寄って、イチゴに水をあげ、ブドウの摘心をやってきました。
 イチゴはまだ実がなっていて、みんなで分けていただきました。まりちゃんが言うには美味しかったとのことです。沢山出来ている時には、ありがたみが無かったですが、この時期になると、ありがたみが出て来ました(笑)


 午後から入られる方が2名おられました。
おっちゃんの送迎組さんは、池ノ原でお薄を頂いてから、うたたねに入りました。
 お薄も、久し振りに頂くと、本当に美味しいな!と思いました!
こちらも、時々の方が、ありがたみがありますね(笑)。

 ホームの利用者さんの一人が、移動支援で日中屋外にいたら、軽い熱中症のような症状になり、うたたねの看護師は休みの日でしたが、電話して来て頂き、直ぐに渥美病院に行き、大事に至りませんでしたが、みなさんも本当にご自愛ください!
 本当に毎日暑いですね!




 そんなこんなでも、時間を作ればあるもので、早起きして、読書をしました。
アップは、電車で読んだ箇所です(笑)が、本当に勉強になりますし、即、現場で使えます。






意図性の発達に向けての前進

 〜ある新生児たちははるかに抱っこを必要とするということはよく知られていますが、ある子どもたちは他の者より、(細心の注意を払いつつ)毅然として接触のなかへと引き入れねばならないということは、おそらくそれほど述べられていません。私は第5章で、新生児の母親はどのようにして、赤ん坊のすべてのちょっとした動きや視線を拡充し広げて、それに意味を与えるかについてのBrazelton の記述に言及しました。母親は、相互交流を妨げるような行為を、それに役立つものへと変えるのです。私は、これはN先生が行った仕事と非常に似たものだと思います。N先生は、ほとんどいつも通りシンディがしていること、しようとしていること、まさにやろうとしていることに、穏やかにコメントを続けていました。しかしながら、これは単なる、抱っこや鏡映や受容的反射ではありません。もし彼女がBion の言う意味で意味を与えていたとしても新しい彼女は時としてシンディが表現したもの以上が何かを付け加えていました。彼女はしばしば拡充し、このようにして、シンディの願望やシンディ自身に向けてシンディがあると考えているよりも、多くの意味を与えていたのでした。ときおり、シンディさんすることが、口を軽く開けているだけということがありました。そしてN先生は、「あなたは何か言いたいのね」と言うのが常でした。シンディが本当な何か言いたかったのかどうかは、いつもはっきりしているというわけではありませんでした。Brazelton は、新生児の母親について、「おそらく、反応しない子どもに体面するというチャレンジへの、もっとも面白い反応は、次のようなものだろう。母親はあたかも乳児が意図をもって振る舞っているかのように、あるいは母親と乳児がやりとりをしているかのように、感情を示す表情や動作や姿勢を色々変えるのである」(1974:68)。ときどき、そこには意図の幻影がいたのであり、あるいは幻影以上のものがありました。また別のおりには、おそらくN先生は、Brazelton の母親のように、何の行動もない時に、あたかもそこに非常に重要なやりとりがあるかのように、実際に振る舞っていたのです。いずれぬせよ、彼女は常に、その子と対象との溝を橋渡しし、そのような溝が無気力に沈み込んでいるように見える子どもが、橋渡し可能なものとして見えるように援助しました。シンディが、あてどなく心ここにあらずといった感じで、初めて親指を粘土に押しつけたとき、治療者は彼女が「印をつけている」とコメントしました。多くの場合、次に行われる、ある動作や動きのヒントがあるだけでした。しかし、次第にシンディは、ずんぐりした固まりとして振る舞うことが減りは人間としての形をとり始めました。彼女の淀んでいた心の流れは、流れ始めました。彼女の輪郭はよりはっきりし、目的感覚と行為の感覚の始まりのようなものが発達し始めました。
 2、3カ月もたたぬ間に、治療者の関心と注意が発達自分がしていることへの彼女自身の興味を増大させるという効果のもたらしたように見えました。シンディ自身の興味と、自分の世界と印をつけたいという彼女の性向とにコメントすることが可能になってきました。しだいに、シンディが楽しんでいることへの治療者の関心とコメントは、自分が楽しいことを楽しんでいるということに、彼女を気づかせる助けとなりました。普通に波長を合わせる鋭敏な母親たちが。自分が行っていることに気づかぬままに、小さな赤ん坊に、生後第一週から、そして生涯を通してずっと提供するのが、この自己観察に積み重ねなのです。Winncott やBion が示しているように、母親は動揺を包容し、心を落ち着かせ、栄養を与え、世話をします。しかし、SternやTrevarthen が示すように、母親はまた、赤ん坊の視線を追い、その心の状態や興味、あるいは興味深い、心地よい心的状態に、関心をもっているのです。