うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

梶の葉と、【……(母親は)仲間に入りより詳しく表現するよう促します。それが相互作用の行動になるには最も可能性がないものでさえも、模倣を通じて促します。】

 
 今日は、急な夜勤明け、親分が話があるというので、サクラカフェさんで、ミーティングをさせて頂きました。
お店の中も素敵ですが、外も素敵で、個人的にはこの時期が一番好きです。ミーティングの内容は少し重い内容でしたが、涼しそうな木を見させて頂き、気持ちが少し軽くなりました。



 7月のなので、またまた、七夕関係(笑)
京都にいた時に、冷泉家の本を読んでいたら、七夕には短冊ではなく、梶の葉に願い事を書くと読んでから、七夕近くになると、梶の葉を思い出してしまいます。
 自宅近くのビジネスホテルに梶の葉と思われるものがあるので、明日、雨が止んだら頂いてこようと思っています。
 下記は、愛知県共済(生活協同組合)さんの、インターネット公開講座からの引用です。
http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/japan/tradition/tradition_1/post_75.html

〜(あの方に恋い 焦こがれていると、天の川から、楫かじの音が聞こえてくるよ) と詠い「梶=楫」は「梶の木」に音通し、七夕の日には、里芋の葉に受けた清らかな露で墨すみを磨すり、ハート形をした梶の葉に、恋の願いを書き止とどめて川に流すと、その梶の葉は船の楫かじとなり、天の川に届いて、願いが叶えられるのです。平安時代の『後拾遺ごしゅうい和歌集』に「天の川とわたる船の梶の葉に思ふ事ことをも書きつくるかな」 の歌からも伺い知れます。
 このことから、京都では、七夕の前日には梶の葉 売う りが「カジー、カジー」と声を高ならせて洛中・洛外を歩き廻まわったのです。その梶の葉[図版を参照。〜




 大分前に、ヤフーオークションに出ていた、酒井抱一筆?の掛け軸にこんなものが出ていました。


 ミーティングがあり、本をマックやファミマで読めなかったので、仮眠後、自宅で少しだけ読みました。
その箇所のアップで、昨日の続きです。
 下記のようなことを頭に入れながら、支援方法を考える事は、有益だと思われます。
先日、まじめそうな職員が、重度の方の支援中、ボールを入れる籠を頭から被って、ふざけながらきちんとした方向に持っているのを目撃したのを、下記の文章を読んで思い出しました。
 遊びを上手く利用して行けば良いのに、他の施設の方々は、遊び.....とバカにされますが、昨日アップさせて頂いた箇所にもあったように、苦痛と快の両方とも、支援には大事だと確信させて頂きました。


〜母親は、顔で表現をします。大変称賛しながら、赤ん坊の正面で後ろにひいたり前に出たりと大変熱心に動きます。また一方では、動かない乳児への反応の中で、彼女は大変驚いた様子を、後ずさりしながら驚く真似をしてみせる形で表現します。または、最も誇張した方法で、彼女は乳児に挨拶し、お辞儀をしたり頷いたりして熱心に、さらに生き生きとした長い挨拶のやりとりを続けます。それはあたかも二人の間で、挨拶が現実に交換されているかのようです。 Brazeltonは次のように付け加えています。「驚き、挨拶、称賛が、私たちが以前言及した共通の要素を分け持っているように見えるのは興味深いことです。眉を上げ、目を大きく誇張して見開き、両方の場合でかすかに口はすぼめてさえいるのです……(母親は)仲間に入りより詳しく表現するよう促します。それが相互作用の行動になるには最も可能性がないものでさえも、模倣を通じて促します」(Brazelton et al.1974:68)。
 KlausとKennellは、分娩室で母親と赤ん坊が始めて出会ったときの10分間の行動を映像にとりました。Macfarlane(1977)の説明によると、

 これらの観察の結果によって、母親は、新生児をはじめてみた時に、それぞれ「決められた予期できる」パターンの行動を示すことがわかりました。はじめは躊躇しながら指先で子どもの手と足に触れ、それから4,5分の間に子どもの身体を手のひらで愛撫し、そうしなふぁらだんだん興奮していきました。この赤ん坊の吟味は数分間続き、母親が裸の赤ん坊を横にしてうとうとするにつれて減退していきました。また、10分間の撮影の中で、母親が赤ん坊とお互いの目をのぞき込めるような(もし赤ん坊が目を開けていたらですが)姿勢をとる時間が著しく増加しました。同時に、彼女は乳児の目を開けさせりよう試みて、乳児を目覚めさせることに強い関心を示しました。これは、4分の3知覚の母親が次のように言語化しています。「お目々をあけて、ほらほら、お目々をあけて」とか「お目々をあけてくれたら、生きてるって分かるのにねぇ」などです。また、母親の中には、一度でも乳児が自分を見たらより親密になったと感じた、と言った人も幾人かいました。

 Macfarlaneはまた、誕生後の最初の瞬間を撮影しましたが、それを文字に起こしたもののいくつかに、母親が子どもとの最初の出会いを詳細に言語化したものがあります。「C夫人は赤ん坊のそこかしこを指で触って調べ、夫に言うのです。『見てこの小さいお口、見てこの小さなお顔、小さい爪。あら、小さいぺちゃんこのお鼻、あなたの鼻に似ているわ。見て小さな頭。見てこの髪の毛』」。 Macfarlaneはこれに対して、「ある種の喜びにあふれ、驚きに満ちた数え上げであり、同時に、すべてのものがあるべきところにあることを確認するためのまじめな点検でもあります」と言っています。
  Macfarlaneは、KlausとKennellと同じように、赤ん坊の目について母親が持つ強烈な関心に注目しました。「C夫人は、実際には赤ん坊が目を開けてはじめてじかに挨拶をしたのですが、『こんにちは!』と1分半の間に7回も赤ん坊に言ったのでした。この直前に彼女は自分の赤ん坊に目を開けてと言っていました。(Macfarlane 1977:50-3)」赤ん坊は、このように持続的に決然と母親にいざなわれて、これほど喜びにあふれた挨拶を母親が受けたあとでは、母親がそこにいることと自分自身がそこにいることを疑うことはなかったはずです。