うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

【これらの「偽りの」タイブの償いは、境界水準の精神病の子どもや剥奪児や自我を欠いた子どもや非行の子どもたちの場合は特に、真の償いへと向かう重要な発達上の移行段階を含んでいるかもしれないことを、私は示唆したいと思います。】


 昨日、休憩がてら行った喫茶店から外を見たら、提灯が並んでいました。
コーラの提灯なので、ビアガーデンではないのでしょうか?
まあ、深く考える事でもないので(笑)美味しいコーヒーと涼を頂いて帰って来ました。

 今日は夜勤で、午前中に体を追い込みに行こうと、少し早く出て、ショッピングセンターの広場で、オレンジ―ナを飲みながら本を読んでいたら、以前うたたねに住んでおられた男性が、声を掛けてくれ、少し話をしました。元気そうで良かったです。
 そういえば、一週間前にもまた違う、うたたねに住んでいた青年とうたたね横のファミマ前で会いました。
彼は、中々就労が上手くいかないようで、困っていた様子。彼とも色々話をしましたが、御両人とも、職員の名前が出るのは、親分だけでした.......。
卒業された利用者さんに覚えていてもらえるような支援を(もっと心の中に入った)してほしいものです。
 いくら重度の方でも、心があり、心に触れたら何とかなるものですが、みなさん腫れ物に触るようにビビッてしまっています。
ラカン曰く、『一瞬でもたじろいだら、被分析者になるのは分析者である。』
 分析者を支援者に置き換えてみたら、本当にそうだと思います。

 今日の夜勤前に、図書館に行って、歌本を借りて、ギターを弾きながらみんなで唄おうかな?と思っています。なら直ぐに出勤しないといけませんね(笑)


 アップは、その時に読んでいた箇所です。
下記の、愛される対象というのは、一番近いところでは、親ということなのでしょうか?
親にできないときには、支援者が代わりになれたらよいのでしょうか?自分の小さい脳みそではそこまでの思考しかできませんでした。        

『これらの「偽りの」タイブの償いは、境界水準の精神病の子どもや剥奪児や自我を欠いた子どもや非行の子どもたちの場合は特に、真の償いへと向かう重要な発達上の移行段階を含んでいるかもしれないことを、私は示唆したいと思います。またそのような子どもたちが自身の強さや力を引き出すのは、罪悪感とは関係のないことからであり。それは愛情が憎しみに対抗することにすら関係ないかもしれません。むしろそれは愛される対象に楽しみを与えることで、愛情が自己表現しようとすることに関係しているかもしれないことを示唆したいと思います。これは、妄想分裂ポジションにおける理想化の何らかの成長と発達を意味しています。』




〜Hinshelwood (1989)の『Klein 派理論辞典Dictionary of Kleinian Thought 』によると、抑うつポジションにおける償いの役割についてMelanie Klein はその理論を定式化するずっと前に、子どもたち自身が攻撃性についての苦痛、意義や、傷つき壊れた対象への哀れみや、そういった対象を修復し助けたいという彼らの欲求の意義について記していました。その理論がついに定式化されたときには、妄想分裂ポジションへの移行はその個人が陥りがちな不安のタイプと、対象がもつ関係の質の両方に変化の兆しが現れる、とされました。妄想分裂ポジションにおいては、恐れは自己のためのものであり、抑うつポジションではそれは対象を気遣うことと関連しているのです。妄想分裂ポジションにおいては、良い対象への愛情と悪い対象への憎しみは分離され切り離されていますが、抑うつポジションにおいてはに人はそれらの感情は双方ともまるまる一つの対象が属していることに気がつきはじめるのですに(Klein 1935)。Klein は、そういった統合はひとつの達成であること、それは両価性と混乱とは異なること、それは愛する感情が憎しみを克服するに足りるだけ強い時のみ起きること、を強調しました。彼女はまた、愛情が憎しみと出会い苦闘する中でとる異なった二つの役割を区別しているようです。第一の役割は阻止することと容赦することであり、愛情は憎しみを阻止し束縛するものとして働きます。第二の役割は償いであり、阻止されずにすでに生じた損傷を償いたいという願望が存在します(Klein 1937;1940)。
 私の考えでは、償いという概念は、精神分析の理論においてもメタ理論においても、飛躍的な進歩を伴っています。私はこの理論的、メタ理論的な進歩の意味のいくつかを検討探索したいと思います。そして発達的、心理学的に見て償いに先立つものが何かあるのかどうかを考えたいと思います。
 償いは、抑うつポジションの発達と分かちがたく密接に結びついていると見なされています。しかし私は以下のことを示唆したいと考えています。つまり、償いの活動には、妄想分裂ポジションにおける「前―償いで」、よりよく言い換えれば「喜ばせる」、「楽しみを与える」(さらにいえば、なだめることさえも)という類の先駆けがあるのを見いだせることです。Hinshelwood は、Klein が償いに3つのタイブの区別をしていると示唆しています。第一は、躁的償いで、損傷を受けた対象に対して勝ち誇った感じをもたらしました(例えばその人は、誰か他の人によって傷つけられたと感じている対象を償うかもしれません。ということは、罪悪感を持つ必要がないのです)、これは真の償いを達成してはいません。第二は、強迫的な償いで、よい対象を思いやるよりも悪い対象をなだめることに費やされるもので、第三は、真の償いで、対象への愛と尊重に立脚し創造的な達成をもたらすものです。明らかに3つのタイプの間の区別は不可欠のものですが、Klein は偽りと真の償いの間の差異に読者の注意を引きたくて、次のような状況を導いてしまったかもしれません。すなわち、躁的、強迫的償いが防衛だと見なされがちであり、それゆえ抑うつポジションにおいて起こる真の償いに比べいくらか劣っていると見なされがちな状況です。それらには、私の考えでは、それ自体が発達的達成でありうるとは見られないかもしれない、という危険があります(例外はSteiner 1979参照)。これらの「偽りの」タイブの償いは、境界水準の精神病の子どもや剥奪児や自我を欠いた子どもや非行の子どもたちの場合は特に、真の償いへと向かう重要な発達上の移行段階を含んでいるかもしれないことを、私は示唆したいと思います。またそのような子どもたちが自身の強さや力を引き出すのは、罪悪感とは関係のないことからであり。それは愛情が憎しみに対抗することにすら関係ないかもしれません。むしろそれは愛される対象に楽しみを与えることで、愛情が自己表現しようとすることに関係しているかもしれないことを示唆したいと思います。これは、妄想分裂ポジションにおける理想化の何らかの成長と発達を意味しています。