今日は、夜勤明けでしたが、義母が入所している施設の草刈り(家族会の行事です)があり、すろーじゃむの刈り払いを借りて行って来ました。
炎天下で、汗が滴り落ち、汗まみれになってめちゃくちゃ臭くなったので、懇親会は辞退して、そのままアイレックスのお風呂に飛び込みました(笑)
柔軟体操とストレッチマシーンだけやって、昼ご飯を食べてから、燃料が残ってしまったので、すろーじゃむの草刈りも、燃料がなくなるまでやって来ました。
また、汗まみれになって(笑)自宅でシャワーを浴びました。
まだちょっと落ち込んでいるので(笑)面白い物を探してみました(笑)
下記は、昼食をマックで頂きながら、読んでいた箇所です。
本当に良い本ですね。
〜通常の発達における抑うつポジションのワーク・スルーは、償いをする能力に左右されます。乳児が憎しみのうちによい外的対象と内的対象を破壊してしまったと感じているとき、乳児。強い罪悪感と喪失感を体験するばかりではなく、失った愛する対象を外的にも内的にも復旧することを求めてやまない感情や、失った調和と安寧を再びつくりあげたい感情を体験します。乳児は、自身の愛情と創造性の全てをその目的のために働かせます。Klein 派の考えでは、この償いの欲動こそが心の成長と創造性にとって最も重要な源なのです。(Segal 1964:15)〜
〜「通常、償いをする欲動は、罪悪感から引き起こされる絶望を押しとどめておくことができます。それから希望が広く行き渡り、赤ん坊の愛情と償いたいという欲求とが、新しい愛情と興味の対象にも無意識的に向けられていくのです(Klein 1937:342)」。〜
〜精神分析は私たちに、罪悪感の問題を様々な方法で扱うことができるのを教えてくれます。私たちは罪悪感を否認し、投影し、強迫的に罪深い行いを打ち消すといった方法で扱うことができます。また罪悪感を避ける手段としては、自分が損傷したのではない対象を償う方法があります。また罪悪感によって圧倒され過ぎているために絶望とあきらめの状態に落ち込むこともできますし、損傷した対象それ自身をなおし復旧しようとし、償うことができます。これらの回避の方策全て(最後のものをのけて全てということですが)は、ある意味では心を機械論的にとらえる観点と完全に軌を一にしています。ここで考えられている機制というのは、自己を制限するもの、すなわちエネルギー源の地理的位置を変更したり表現方法を変更したりするものですが、それ以上のものとはとらえられていません。つまり、エネルギーはある場所から別の場所へと移動するかもしれませんが、それにもかかわらずエネルギーの総量は一定なのです。抑圧、否認、投影、躁的償い、さらにいえば昇華といったものはし罪悪感を解決はせず、避けているのです。それらは人格に根本的な変化は生み出しません。真の償いは、これら他のものとは全く異なる概念で、発達や成長、そして最も重要なことには真実の変化を可能にするのです〜