うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ひまわり畑と、田んぼと、【私が強調したい点は、修復された対象の再摂取は、自己を変え、内的世界を変え、その時愛情は今まで以上に強められる、ということです。】



今日も日中は賑やかで、すろーじゃむを使ったり、うたたねを使ったりで、おっちゃんは、屋内のアクティビティは嫌い(笑)なので、堀切のひまわり畑に、今日も行って来ました!メンバーは違いますが。
 昨日は日曜日で、観光客の方が沢山いましたが、今日は全然いませんでした。しかし、スプリンクラーが派手に動いていて(笑)奥までは行けませんでした......。 



 明日から8月ですね!田んぼの稲穂も立派になっています!
お祭りも9月から順々に始まります。





 今日も、早めに出勤して、ファミマでコーヒーを飲みながら、本を読んでいました。
アップはその箇所です。


 下記を読み解くのは、非常に困難な気がしていますが、目の前に起こっている事を額面通りにとらない方がよいと言っているのでしょうか?
フロイトのように、物には必ず反対の意味も含まれると言うようなことを言っているのでしょうか?
 それとも、ソクラテスのドクサの吟味でしょうか?そちらの方がしっくりきますね!

『しかしここで議論したいことは、ある状況におけるサディズムは、別の状況におけるサディズムを含んでいるという、いくらか危険な理論的理解についてです。分裂に関する理論のよい部分の償いへの衝動が始まるべき可能性をどこかに残していることです。もしその始まりが小さなことでも、「間違った」対象に向かっていても、うまく行き育まれ、先述した好循環のひとつに入るよう整えてくれるかもしれません。』



Melanie Klein は以下のことを明らかにしていますそれは、愛情が憎しみより強く、憎しみが愛する対象にしてしまったことについて罪悪感があるような状況では、償いができないと感じている患者は、何らかの癒しの方法で損傷した対象を修復した対象へと変化させたいと願うということです。私が強調したい点は、修復された対象の再摂取は、自己を変え、内的世界を変え、その時愛情は今まで以上に強められる、ということです。Klein 自身、この種の償うという行為の結果として内的世界で起こる自我の強化と成長について繰り返し述べています。
 この好循環に入るのを妨げる、過度の憎しみや迫害とそれらに対する過度の防衛、過度の罪悪感やそれに対する防衛といった自己の状況に関して、多くのことが論じられてきています。同じくらい重要なのが、対象自身は性質と状況でありそれらも好循環や不思議の環に入るのを促進したり妨げたりするかもしれないのです。例えば、償うことのできない対象や償うことのできない状況という場合、私たちは正確には何を意味しているのでしょうか。自己の中の愛情と憎しみと罪悪感とのバランスは考慮されるべきですが、その対象が償い可能性と関連した性質を持っているかどうかということも同じく考慮されるべきなのです。この方程式にある償い可能性という要因には、何か動因になる力があるのでしょうか。どこか償いたいという気持ちは、たとえ償い可能性の見込みや期待ではなくても、少なくとも償い可能性の可能性を信じるという色合いを帯びます。状況が明快でよいものへの愛情と信頼が確立されているところでは、それは単に当然なことと見なされうるからです。しかし多くのより重い患者にとっては、そのような要因は時に、子どもがどんなに小さくともある種の好循環を一歩を踏み出そうとするのか、あるいは古い繰り返しの病理的なパターンにとどまるのかの間のバランスを崩すように見えるのです。 私は極端にサディスティックで誇大的で残酷な少年のことを思い出します。彼は自分の家族全員を手荒に扱い、治療者に対しても暴力的で手に負えず、うまく関係がもてずぎこちない状態でした。もうすぐ夏休みがくるという頃、彼の両親は担当の精神科医に、子どもが夏の間一緒に遊ぶ子猫がほしいといっている、という相談をしました。精神科医と両親は、少年はまだ準備ができていない、彼はおそらく動物に損傷を与え、彼自身の中に罪悪感や生じさせることをなるだろう、という結論に達し、彼に子猫を与えないことを決めました。とはいえ、私が覚えているところからよれば、彼が動物に残酷なことを今までにしたという証拠はなかったのです。もちろん、この患者にとってこれが臨床的に見て正しい決定だったかどうかというのはだれにもいうことができません。どちらにしてもそれは賭けだったに違いないのですしかしここで議論したいことは、ある状況におけるサディズムは、別の状況におけるサディズムを含んでいるという、いくらか危険な理論的理解についてです。分裂に関する理論のよい部分の償いへの衝動が始まるべき可能性をどこかに残していることです。もしその始まりが小さなことでも、「間違った」対象に向かっていても、うまく行き育まれ、先述した好循環のひとつに入るよう整えてくれるかもしれません。