うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

山の日と、小さなお客さんと、【成長する子どもに様々なことを気づかせるのは、現実の情け容赦ない力ではありません。それはむしろ愛情の力であり、愛情が増悪に影響を及ぼし抑えることのできる力です。】


 今日は、山の日!
実は、蔵王山に行ってから気が付きました(笑)
 本当は、夜勤だったのですが(笑)書類を事務所に持って行ったら、ユウスケ君がマックに行きたい!とのことで行く約束をしたのはいいのですが、まだ9時過ぎ.....。
 取り敢えず、後のショートの方々をお待ちして、ドライブに行きました。

 生憎、湿度が高く、標高が上がるにつれ、霧がながれていましたので、景色はきれいに見る事ができませんでしたが、


 3階のプロジェクション・マッピングで、しばし皆さんと楽しみました。
なんやかんやしていたら、良い時間になったので、マックに向かいました!

 マックを終わってうたたねに皆さんを送って、中ぬけさせて頂き、体を追い込んで帰宅して本を読んでいたらもうこんな時間....。
アップしたら夜勤に行って来ます。


 朝、紅茶のお湯を沸かそうとシンクに向かったら、コウロギさんが水を舐めていました。暑いですが、自然は秋の準備に取り掛かっているのですね!




 バタバタしてのアップは、誤字脱字だらけになります(笑)



否定的な考えを刺激するものが本当は何かということについては、Freud がそれは性的希求を挫かれることであると主張した時代から、非常に洗練されてきました。例えば、成熟性が増し性格が発達するために直面しなければならないとKlein 派が考える現実は、Freud の幼いエディプスが苦しまなければならないものよりも、もっと私的で、ある意味でより悲劇的です。成長する子どもに様々なことを気づかせるのは、現実の情け容赦ない力ではありません。それはむしろ愛情の力であり、愛情が増悪に影響を及ぼし抑えることのできる力です。それによって、子どもは喪失に屈服するというよりも喪失に耐えてそれを受け入れることが可能になるのです。断念の代わりに、放棄して譲ることがそこにはあります。コントロールの代わりに、受け入れることがそこにはあります。したがって、子どもは、母親が去っていくことをコントロールしてそれ自体優越するために、妄想ポジションにおける糸巻きの遊びをするかもしれません。抑うつポジションにおいては、子どもは糸巻きの遊びをしながら母親が去っていくことに折り合いをつけているのかもしれません。 しかし、Winncott やBion を初め多くの理論は、喪失や分離や分離性、あるいはWinncottが幻滅(disillusion)と呼んだものを学習や知的成長や発達を刺激する重要なものであると強調する傾向で一致しています。もっとも、公平に言えばWinncott(1958)が強調しているのは、この否定的側面と肯定的側面の方程式の中の幻滅と痛みだけではなく、錯覚と幻滅のバランスです。Kleinもまた注意深く読めば否定的なものだけでなくバランスの重要性を強調していることも確かです。ただし、彼女が言う肯定的なものは、自他が溶解する融合というよりも愛情に満ちた、覚醒状態にある関係にまつわるものです。彼女は確かに、良い乳房の摂取が将来の発達への根本的な基礎であると何度も強調しました(Klein 1937)。しかし、それは単に発達に必要な条件というだけなのでしょうか、それともそれはときとしてそれ自体で十分なものなのでしょうか。 遊びについての精神分析の文献から、子どもの発達の著作論文に目を移すのはほとんど喜劇的です。というのは、強調点があまりにも異なるからです。BrunerとJollyとSylva(1976)によって編集された『遊び』という本の中で、Brunerが書いている序章は、遊びの遊び心(playfulness)をともかく当然のものと見ることで始まります。そして彼は、幼いチンパンジーは母親が側にいて注意を逸らすものや緊張を与えるものを緩衝する役割を果たす場合に、最も自由に遊べるようであるという、一致した研究知見を引用します。Corinne Huttは、「遊びは…既知の環境において、動物もしくは子どもがその環境にある対象の特性を知っていると感じる場合にのみ起こる。これは、気分がリラックスすることで明白である。それは、顔の表情の変化だけでなく、活動がより多様で変化に満ちたものになることに明確に現われる。遊びにおいては、強調点は“この対象は何をするものなのか”という問いから“私はこの対象に何ができるのか”という問いに変わる(Hutt 1966:211)と指摘しています。