ふと、こんなことがしたくなって(心が病んでいるのでしょうねw)夜にひーひー王子を連れて(一人だと怪しく思われるのでw)オシロイバナを頂きに行きました。
自死した母親の実家は、大きくて、玄関に入るまで露地を歩いていかないといけなかったのですが、色んな花が咲いていて、夏はオシロイバナが沢山咲いていたのを、今でも覚えています。
色が幼稚ですが、その分、ノスタルジーを感じます。ブリキの金魚や船のおもちゃのイメージでしょうか?
水を入れて写そうとしたら、ねこさんが水を飲みにきました(笑)自分の水飲み場があるのに、嫌がらせとしか思えません(笑)
昨日、岐阜の友人に、職員の教育について相談したら、彼女も同じような問題で戦っていました!
戦わない奴らが多い中、本当にあっぱれ!です。(張本さんは嫌いなので、一緒にしないでくださいねw)
元戦友でしたので、本当に嬉しく思いました!また一緒に仕事ができたらとも思いますが、彼女は責任のある立場なので、無理ですね......。
今日も待ち時間に本を読ませて頂きました。忙しい、忙しいと言っている人ほど、時間があるように見えるのは気のせいでしょうか?(笑)
今日の箇所も本当に参考になります。
第11章 心を硬化させた破壊的な子どもにおける償いの先駆け
〜自閉症児は精神病質の子どもと大変異なっているとはいえ、何かをするときに自分自身の好きなやり方に良心を持たないかのようにこだわるのは、同じです。無関心なさまも似ていて、それに伴う治療者の技法的問題も同様です。
病んだ言葉やフレーズを大切にし繰り返すことに、てロビーは倒錯した嗜癖を示しましたが、それは奇妙なことに、精神病質が子どもが残虐さと残酷な力へ嗜癖を示すのと、どこか共通なところがあります。彼らは、自身のより配慮と思いやりのある部分に接触を持てるようになる前に、まず他者をまともに受け止めなくてはなりません。ロビーは、他者が存在することをほとんど知りませんでたし、精神病質の子どもは他者がそこにいることを知っているかもしれませが、軽蔑や関心を払うに値しないものとして見ているかもしれません。私は非常に単純化していますが、それでも概して、ある種の心を硬化させた尊大で破壊的な子どもの場合、その子どもに尊重の能力がいくらか育ってくるまでは、治療者がその子どものより良い自己に訴えるのは無駄なのです。そういった対象に対する尊重は、対象が復讐や、道徳的怒りの念と駆られることなく、瞬きすることなく、子どもの目の中に悪を見すえることのできる力と関わっているように思われます(Symington 1980 参照)。子どもが、自分がやりすぎてしまったかもしれない、とついに感じる瞬間は、抑うつポジションの思いやりの前兆ではありません。むしろそれは、何をやってもいいのだという尊大で破壊的状態という酔いから覚めることを示しているかもしれません。これによって、対象への尊重を新しく見つけ、そしておそらく対象への恐れが成長促進的になるかもしれません。これは自分の患者を怖がらせてみるべきだという意味ではありません。しかし、何らかの形で破壊性の度が過ぎてしまったことを、より意識的にありのまま恐れることは、以前なら疑いもなくえじきになっていたその恐怖を無意識的に分裂排除するよりはましであることを理解するのは重要です。そのような子どもたちの治療経験は治療者にとって困難で心かき乱される教育ですし、大変サディスティックだったり倒錯していたりする患者を担当する治療者は、変わるか屈服するかのどちらかだと私は思います。治療者は無傷のままではおれません。〜