うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久し振りにお薄を点てましたと、【つまり、Kとno Kの間での揺れである。】


 先日、静銀に行ったついでに、お薄用のお抹茶を買ってきました。
今日は、自宅で給与計算等していたら、あっという間に渥美の方の送迎と、学齢児さんの入浴介助の時間になり、慌てて車で走りました。
 うたたねに戻ったら、ショートの方の息が少しおかしいので、看護師に介護福祉士が見てほしいと丁度言っていたところでした。
直ぐにオキシメーターと聴診器で見てくれ、親御さんに電話をして、かかりつけの病院や薬等の事を看護師が聞いていました。SPO2が91というのは、低すぎたので(体位のこともありますが)それも心配でした。
親御さんが迎えに来られたときに、看護師が、日中見させて頂いていた職員のことをきちんと立てていたのも、偉いなと感じました。自分自分の人が多い地域やな〜と思っていたので(笑い)、こんな人もいるんだと、再発見させていただきました。
 看護師と介護福祉士が、それぞれの役割をきちんと果たして、お互いが持っている情報や知識を話し合っているのを、洗濯を干したり、洗い物をしたり、掃除をしたりしながら聞いていましたら、何か誇らしくなってきました(おっちゃんは何もしていませんが......)。
 何か、この時代に、感情論や、根性を前面に出す、福祉職が多い中、きちんとした理論や技術を勉強してきた者も現場にいることが誇らしく思えたのだとおもいます。その介護福祉士は、利用者さんの笑顔が見たいので、この仕事をしていると、先日話してくれたばかりでした。
その方を、看護師と介護福祉士と見送った後、帰宅し嬉しかったので、忘れていたお抹茶を出して点てました。
 美味しいお抹茶でありますが、その後だったので、余計に美味しく感じました。一番好きなお茶碗で点てました! まあ、濃茶用のお茶碗なので、お薄は立てにくかったですが(笑)





本は、朝、プリンターの様子が変だと連絡があり、見に行った帰りに、30分ファミマで休憩がてら読みました。意地でも(笑)読書とギターは毎日やり続けようと頑張りますが、ギターは体が元気じゃないと弾けないので(笑)怠けてしまうことが多々ありますが.......。今日は弾いてから寝ます。
この辺が、本当に理解できたらもっと支援が(双方とも)楽になるのでは?と思ったので、頑張って何度も読み返しています。苦痛でしかなかった(笑)『ビオン入門』ももう一度読み直したいと思っています。


〜「精神病者のほほ笑みの意味することは、非精神病者のほほ笑みのそれとは異なっている」とビオンは言う。同じことが子どもの遊びにも言えるだろう。これらは臨床描写では――3つの分析からのそれぞれのタイプは子どもの精神療法家には馴染み深いものであるし、提示のためにいささか型にはまっているのだが、――家の絵はそれぞれの子どもに異なった意味がある。最初の子には、その絵はKを表している象徴性のコミュニケーションである。2番目の子どもにとっての絵は、空虚さと意味を欠いていることについてのスィーガル(1957)の言うところの象徴等価物(類象徴)、すなわちマイナスKである。別の絵とか別の種類の遊びは、この段階では分析がいかなる体験とも異なったところがないことと同じように、なにもなさない。3番目の子どもにはKはなくHの恐怖から治療者をなだめるために、家のような型の中に自分自身のかけらを具体的に押し出すことが絵を描くことである。 ビオンの臨床洞察のおかげで、K、マイナスK、さらにno Kという精神病状態、それぞれの三領域にある患者たちと新たに取り組めるようになった。たとえばKと自我の分割や統合との関連を考えてみよう。これまでに述べてきた三人の子どもたちのうち最初の子どもでは、母親についてのKがあまりに強烈が不安をかきたてたとき、その子は記憶と母親は整然としているが空虚であるとの判断を分割排除した制御分割や活動〜活動へと整然と素早くその対象を移すことによって、知ることから自分を守った。Kが恐くなったときに、彼女は描けるようになり、内在化された母親についての知識を統合しながら、治療者/母親も知りたいと熱望して、整然として空虚な家を描いた。これはセッションの後半にはこの子は強烈な疎外感――それはそれまではつながりのない出来事として分析家の中に投影されていたものだった――をコミュニケートしてきた。彼女にひどい疎外感を感じさせているのは、整っているが空虚な母親であるとの痛々しい条件的実感をもたらす、統合へのさらなる動きだった。Kを持たない苦痛だけでなく統合によるやすらぎも分析されることが重要であると私は思う。 マイナスKについて言うなら、ビオンのおかげで、ある子どもたちでは何が現実なのかを“知っている”にもかかわらず妄想的な領域が続いていることがわたしたちに理解できるようになった。その手がかりは、そのような知識はKではなくマイナスKであることである。2番目の子どもは、父親と母親がいると彼女が“知っている”ので分析にやってきて家を描いたとのことをマイナスKの意味で知っている。しかし、それは彼女には何も意味していなかった。彼女は意味のなさとむだなことばに苦しんでいる。ビオンの業績のおかげで気づくのだが、排除されているのは、彼女が両親であるとは知らない対象群へのたいへんな万能感と優越感である。彼女の世界には大人がいない。彼女自身がしているように、“大人になっている”ふりをしているが誤らせる対象群がいる。その子どもと対象群の間には、ビオンが表現しているのだが、「剥ぎ取りの過程が続いていく……無に変質してしまう空虚な優越感/劣等感にほとんど他ならないものになってしまうまでにである」(経験から学ぶ、p,97)。   おそらく精神分析へのビオンの最もオリジナルな貢献は、精神病者の心の中のほとんど知られていなかった過程の研究であろう;精神病者の頭の中での侵入なあやつりの具体的な体験、あらゆる器官からの排出、投影の風変わりな軌跡、内的世界や外界を充たす奇怪な対象群。Kなしに存在することとはどんなことなのかについてのビオンの理解は、もはや多言を要しないが、内的にも外界でも空恐ろしい部屋の中に存在している、すでに述べてきた3番目の子どものような子どもたちに届きたいと熱望している分析家たちに大変な助けになっている。精神病者や分析家にとっての分析作業の本質と困難さをビオンの論文は深くそして正解に解明している。ビオンはK、マイナスK、no Kについての臨床理解を深めていくとともに、それらの総合連結も解明している。これらの相互連結を理解しておくことは、プレイルームで生じてくる心の動きでのふたつの状況を理解するのを助ける。すなわち、情緒的に理解する体験からその体験の喪失への動き――つまり、KからマイナスKへの動きであり、それから、正気であることから精神病であることの動き、またその逆――つまり、Kとno Kの間での揺れである。


自分用に下に貼り付けました(笑)


K:自己や他者を知ろうとする情緒経験。

no K:自己や他者を知ることができる心がない精神状態――患者の心の精神病部分において、彼は自分では考えられない奇怪な非現実的な宇宙に存在している。
マイナスK:自己や他者を誤解するという残忍で剥奪的なつながり。