うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

途中になった(笑)投げ入れと、【精神病的な子どもや剥奪された子どもたちにおける欠損を見る一つのやり方は、それを、情動的なものとみなすだけでなく、認知的なものとみなしてみることです。そもそも、そういった区別そのものが誤っているのかもしれません。】


水曜日に頂いた菊を投げ入れようと思っていたら、急な用事ができたので、一旦やめました。(笑)
なんやかんやしていたら、夜勤の時間になってしまいいたので、行って来ます。(笑)


 下記は、昨日電車で読んでいた箇所です。
一つの方向や考えだけでは、本当の支援に近づくのは無理そうですね......。もっと勉強しなければいけませんね......。


第7章 新しい考えのもつ問題――認知的欠損の表現形としての思考障害と行動障害

Klein (1937)は感覚後に愛情と理解の重要性を主張しましたし、母親と一緒にいる乳児を観察したKlein 派の研究はWinncott (1965)およびBion (1962)が抱っこや包容といった母親の機能の重要性を強調したこととあいまって、母親対象そのものの質やその心的な質についての関心を高めてきました。Bion は、母親は乳児が自分の体験を加工するのを助ける、すなわち「考えを考えられる」ものにすることで、体験に意味を与えるのだと言っています。乳児か母親かのいずれかが、どんな理由にせよ、この加工をする力をわずかにしか持たぬ場合、否定的な応答の悪循環がついには子どもに心理的な欠損を生じさせることが乳児観察と乳児研究から示唆されています。その欠損は、もともとの、おそらくはまったく健全な生まれつきの資質とは、相対的に言って、ほとんど関係がないかもしれません(Murray 1991;Miller et ai.1989)。




欠損の認知的側面

 精神病的な子どもや剥奪された子どもたちにおける欠損を見る一つのやり方は、それを、情動的なものとみなすだけでなく、認知的なものとみなしてみることです。そもそも、そういった区別そのものが誤っているのかもしれません。Jerome Bruner(1986)は、Davjd Krechが人に「perfink(perceive,feel,think)する」こと、すなわち同時に認知し、感じ、考えることを主張していたと指摘しています。Spensley(1985)は、自閉症児には情緒の障害に先立って認知的な障害が生得的にあるというRutter(1983)が提唱した見解に、疑義をさしはさんでいます。Spensleyの観察では、ある自閉症の少女の認知的な不全(deficiency)は、深く崩壊した状態の、精神病的な抑うつと分かちがたく結びついているようでした。Urwin(1987)は、認知の研究者たちが情動を、認知の速度を遅くしたり速くしたりするものの、認知そのものの構造には入りこまないものとみなしているという点で批判しています。しかしながら、自閉症に関する初期の精神力動的な考えが、いたるところに防衛と抵抗の過程を見いだす傾向をもっていたことも真実です。ある可能性を考えつくのを拒むことは、それを考えつけないこととは全く別のことです。後者のようになるのは、子どもが必要な前概念作用(preconce4ption)をもたずに生まれてきたということではなく、前概念作用がしかるべき現実化に出会わなかったということかもしれません(Bion 1962)。私は、ある場合には、欠損が修復されると、子どもは新しい体験ができるようになり、この体験には新しい感情や新しい観念が含まれるだけでなく、考えを考える上での新しいやり方の始まりも含まれているかもしれないと提唱したいと思います。多くの精神病の子どもたち、特に生まれてからずっとあるいはほとんど精神病だった子どもたちは、実際に、語りや空間や時間の概念を全く持っていません。また、そういった子どもたちは、因果律や意図性について、不適切なあるいは混乱した観念を有していることがあります。もっとも単純なレベルで言えば、そういって子どもたちが「あることが起こった」と誰かに言えることがまずありません。打ち身だらけになっていても、落ちてそれで足を怪我したということができませんし、恐怖で縮みあがっていても、何が恐かったのかを言うこともできません。語りの能力は、対象関係の内的で情動的な世界における、非常に複雑な進歩を前提とするようです。健全な発達のためには、情動体験の質が重要ですが、しかし、乳児が体験を省み処理することができるようになるやり方、Bionの言葉を借りて言えば、考えを考えるようになるやり方が同じく重要なのです。情動的な欠損と認知的な欠損とを区別することはいくぶん不自然なことですが、このような事情から、認知的な面からの考察を看過することはできないのです。
 このことは必ずしも、治療者が代理の母親や代理の教師となるべきだということを意味しているのではありません。精神病の子どもたち、剥脱された子どもたちや虐待された子どもたちの場合、臨床上よくあるこの重要な問題に着手しつつ、なお分析的な態度を維持する方法はあります。子どもが自分の欠損を防衛的、破壊的に用いてそのやり方に注意しつつ、その患者が新しい体験をし、考えを持ち得るようにすることは可能であり、また不可欠なことです。「できない」、「どうやっていいか分からない」というのが、「やりたくない」とか、より微妙なところでは「わずらわされたくない」といったことの偽装である場合が実際あるかもしれません。しかし、「したくない」が、「できない」を、少なくとも自分にはできなと思っている患者の信念をいとも簡単に覆い隠していることもあるというのも本当です。分析家や治療者は、前者のような場合だけでなく、後者のような場合にも敏感でなくてはなりません。