うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

野菜のパッケージと、【その子は、光と温かさに手を届かせることができるのであり、気持ちを奮い起こし、勇気を出して、時には天にも登るような気持ちになることすらできるのです。】


先日、うたたねの買い物で、イオンに行った時、野菜売り場で、パッケージのキャラクターに目を奪われてしまいました(笑)

 こっちも素敵(笑)

 あっちも素敵(笑)
買いに行ったのは、バナナとヨーグルトでしたが.....。
 まあ、夜勤明けで、仕事はお役御免だったので見逃して下さい(笑)


 今日は、ケース会議がありましたが、うたたねに限らず、慣れだけでやっていて、本当に支援が出来ていると思っている職員が多すぎるので、どうやっていけば良いのでしょうか?これからの課題ですね......。案外、利用者さん達の方が、支援者よりも卓見しておられて、半ばあきらめて(潔く?)おられるのかもしれないなと、思ってしまうような職員の言動もありました。
 勉強の大切さを口酸っぱく話しましたが、どれだけみなさんの心に届いたのでしょうか?


 今日のアップは先日読んだ箇所です。
こちらも、沢山のヒントを与えてくれていますが、それを感じられる素直な心がなければ、馬の耳に念仏なのでしょうか?
 次回からは第11章に入ります。




Melanie KleinとPaula Heimannによって記述されたような、対象に飲み込まれた状態、すなわち何でもできず無力である状態から抜け出ようとしている子どもは、時に、超自我の負荷が少し軽くなると非常に安堵を感じます(Klein 1946)。抑うつ的で、強迫的で制止された、私のある患者をとりあげましょう。ジョンというこの患者は、ある日のセッションで、彼が言うところの「独創性のない」いつもの強迫的な儀式をしないことを決めました。彼は、彼が言うところの「独創性のある」何かをただ言うことにしたのでした。彼が言ったのは、リスクを冒して自由連想するということでした。彼の心に浮かんできたのは、先日、友達とサッカーをしていたことでした。その時、いつもの皮のサッカーボールがなく、もっと軽いプラスチックのボールを使わねばなりませんでした。彼らがそれを空中へ蹴り上げたとき、彼によれば「風に乗ってしまうと、どこに落ちるのか分からなかった」のでした。奇妙なことにそれは「面白い」ことでした(彼は実際、その言葉を用いました)。確か、その言葉を彼から以前に聞いたのは、ただの一度きりだったと思います。その話は、まさにいかにして彼が自分の思考を翼に乗せ、その趣くままに行かせるかを伝えてくれるものでした。そして、私はそうしたことが彼にとって当たり前ではないことにショックを受けました。これは明らかに、Winnicottが「軽蔑するような軽さ」と呼んだものや、「重力に抗うこと」と呼んだものとは異なります。それらはむしろ、対象を過大評価し、そのために過度の荷物を背負わされている状態から子どもを自由にしうる軽やかな気持ちの始まりのようです。数ヵ月前、この同じ少年は、私が彼の強迫的な儀式と防衛についてコメントしたのち、生き生きとした声でこう言いました。「考えてみてよ。今晩は宿題がそんなにないんだよ!」。彼が言うには、それはとても素敵な気持ちでした。彼はびっくりしたように、何度もこの事実を繰り返しました。私は、今晩のあなたにはそれほど重荷がないように見え、あなたの荷物が軽くなったように見えるといいました。一瞬ののち、彼は向こうに行って、私の部屋にあった箱の横に並び、自分がいかに背が伸びたかを測って私に示そうとしました。私は、あなたは急に十分大きくなって、十分力があって、あなたが宿題と言っているものはあまりに大きすぎて、自分を圧倒するような荷物だったといつも感じていたのに、と言いました。(彼は自分の荷物が突然軽くなったと感じたとき、文字どおり、背が高くなったように見えました。)
 ジョンは神経症的な子どもでしたが、しかし、多くの自閉的で剥奪された子どもたち、あるいは人生のほとんどを病的な抑うつ状態で過ごしたり、自分自身の良さや良い対象とつながる自分自身の力に絶望している子どもが、ようやく、自分の縮んだ心が再び新緑に蔽われるのを見出すことは、実際にあることでしょう。その子は、光と温かさに手を届かせることができるのであり、気持ちを奮い起こし、勇気を出して、時には天にも登るような気持ちになることすらできるのです。その子は、自分自身の心理的な能力についての感覚を増大させるかもしれません。それはまさに、つかみ、すわり、立ち、歩くことを学びつつある赤ん坊が、自分の身体能力の感覚を増大させるのと同じなのです心理学の領域では、こういった感覚がいつ、重荷と重さからの、必要な一時的な休息を意味し、いつ瓦解へとつながる危険な向う見ずな飛躍、あるいはそうなる危険に瀕していることを意味するのかを突き止めることが肝要です。その区別は、大変重要ではあるものの、しばしば難しいものなのです。