うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

とにかく笑えればと、枯れた投げ入れと、わらびもちと、【Segal (1964)は、躁的防衛の3つの本質的な特徴は、勝利感、万能感的コントロール、そして軽蔑であると指摘しています。】

 少し前から。ウルフルズの古い曲『笑えれば』ばかり聞いています(笑)。
何となく落ち込んでいたので、聞いたらはまってしまいました(笑)。
https://youtu.be/L-ZWzztTX54
 

 先日、投げ入れが完成した物の写真を撮るのを忘れていて、さっき見たら、枯れていました.....。
でも、枯れ方が良い感じかも(笑)
 毎日暑いので、花も大変ですね!


 もうすぐ夜勤なので、ひーひー王子の散歩に、暑いですが行ってから出勤します。
朝は、仕事を休まれる方がいたので(利用者さんです)、現場を覗いてから、ファミマで本を読み、体を追い込んできました(笑)
 親分が、京都に行っているので、ギターを思いっきり弾こうかと思っていましたが、きちんと仕事が入るものですね(笑)
 体を追い込んで、昼食を買ってたら、わらび餅が売っていたので(笑)煎茶で頂きました。

 アップは、今朝読んでいた箇所です。
本当に支援に役立ちそうな記述です。
 



Klein 自身も喪の仕事に関する論文で、成長したいという子どもの願望が動機づけられるのは、両親に対するライバル心や彼らに勝りたいという願望からだけでなく、成長して自分自身のできなさを抜け出したいという願望ゆえであることを明らかにしています。これは究極的には自分の破壊性と悪い内的対象に打ち勝ちそれらをコントロールしたいという願望なのですが、あらゆる類いの達成の誘引となると彼女は述べいます。Klein は、情緒的、知的、身体的発達のすべての進歩は、自我によって、抑うつポジションを克服するための手段として用いられると付け加えています。 子どもの技術や生来の素質や技能が向上していくことであること自分が何かを創り出せる性向をもつという心的現実への信頼が高められ、敵意に満ちた衝動や悪い内在化された対象を支配し、コントロールすることができるという自分へ高められる」(1940:353)。『児童分析の記録』において、Klein は、未来の「有能感」をめぐって自分の才能や希望への信頼がリチャードに育っていったことにしばしば言及し、それを明らかが万能感とは全く異なったものとしています(1961:465)。



「躁ポジション」にむけての発達に関する臨床例
 Segal (1964)は、躁的防衛の3つの本質的な特徴は、勝利感、万能感的コントロール、そして軽蔑であると指摘しています。私は、臨床素材のこの断片から、対象に対する勝利感や対象への万能感的コントロールと見えるものは、実際は、抑うつ的な子どもにおいて、対象が結局のところ、手の届くものであり、捉えられるものであるという、子どもの喜びに満ちた認識の増強を示していることを示唆したく思います。これは万能感をめぐる勝利感というよりは、有能感に関する喜びを示しているのかもしれません。

ここまでのところでは、私はSegal が述べた3つめの特徴、すなわち軽蔑を扱ってきませんでした。それはWinncott の言葉では、「蔑み(disparagement )」であり、Klein の言葉では「勝ち切り下げ」です。私は、慢性的に抑うつ的で剥奪された子どもたちについて、彼らの出せる関係の分析は、さらなる言葉、すなわち拒絶や防衛ではなく、価値づけする能力の欠陥か欠損を伝える言葉を必要とするのではないかと示唆したく思います。これはの事例のいくつかにおいては、子どもの抑うつは対象が過大評価され、自分が過小評価されているというタイプのものでした。たとえば、ある剥奪された幼い男の子は、ねばねばした醜いなめくじに同一化しきっていました。治療者が彼のことを醜いと感じていることをついに治療者が理解したとき、彼は驚くほど安心した様子を見せました。そのことがあってから、彼はたわごとを言ったり、よだれを垂らしたりしなくなりました。より身じたくをきちんとするようになって、かたつむりの話をし始めました。そのかたつむりの家には不思議な力、あって、治療しを彼に引き付けておくことができるのです。思うに、彼は対象と自分自身から価値があると認められていると感じ始めたのでしょう。しかし、自分への価値づけは、他者の価値を切り下げたいといういかなる願望をも伴ってはいませんでした。 別のいくつかの事例では、抑うつの覆いと価値づけをする能力の欠損は、より広範にわたるものでした。子どもは、自分自身の価値も対象の価値も認めません。それは必ずしも、彼が以前には良いと認めた何かの価値を切り下げたいと願っていたからではなく、むしろ、慢性的な空っぽの感覚を有しており、価値や意味や大事なことがあると感じていないためでした。こういった子どもたちが意気揚々となるとき、それは、理想対象(第9章参照)を見つけて興奮しているか、あるいは新しい力と価値ある性質を自分のうちに見出だして、わくわくしているかのいずれかの理由であるかもしれません。新しい自己についてのこうした発見は、病的な自己愛や羨望と軽蔑に彩られた状態と混同されてはなりません。そういった場合、子どもたちが望んでいるのは、自分たちが得たものを見せびらかすことではなく、それを見せて共有してもらうことかもしれません。彼らは、喜びを与えるために見せることと、羨望を刺激し痛みを引き起こすために見せびらかすこととを区別するのに、しばしば助けが必要です。