うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夏の準備と、ごみ捨てと、【強迫機制全般に対する自閉症の関係】


 今日は早番で、現場に入りました。
重度の方もおられましたが、夜勤者がきちんとした支援をしてくれていたので、取り立ててすることもなく、重度の方の食事介助などやらせて頂きました。
 寒暖差が激しい日があったりで、体調を崩されている方もおられますので、ご自愛ください。
送迎や日中に入ってくれる、男性職員が日よけをつけてくれました。
入梅前ですが、夏の準備が始まっています。



 皆さんを送り出してから、事業報告を完成させ、県に送りました。これでやっと一息できます......。
6月は3連休を頂いた(自分が入る隙間がなかっただけですが.....)ので、巻き爪の研修に行きたいと親分に言いましたが、却下されました(笑)
 常勤換算が終わってから、理事さん宅に、議事録の署名・捺印をいただきに行った帰りに、資源化センターにプラゴミを持っていきましたが、何度も小さいものは燃えるゴミに入れてください!と今日は言われる前に(笑)チェックして言われそうなものをよけてから出してきました。30cm以下のものは(木・プラスティック)燃えるゴミと一緒に!と、張り紙を撮ってきました。


 先日、アップした【子どもの学習を「1-音素-1-単語-1-文章の発話」から始まるとして仮定するような(例えば)ローマン・ヤコブソンがさらに進展させた発達的な視点〜】を思い出したときに、下記を思い出しました。いつ読んだのか?も思い出せませんが、図書館に行って、あれば借りてこようと思っています。 
 自閉症の方々に対する話し方が、話し言葉ではなく、語り言葉に自然となってしまっているのを感じるのは、自分だけでしょうか?

 話し言葉から語り言葉に変わると、言葉は一気に音楽に近づいてくる。』  (日本の耳・小倉朗)

 お腹がすきました(笑)夕飯がまだありません......。ギターでも弾いて待ちましょう(笑)

 早番に行くのに5時過ぎに出て(6時半に入る予定でした)5時20分にうたたね横のファミマでコーヒーを飲みながら本を少しだけ読ませていただき、ついでに携帯に打ち込みました。その個所のアップです。7時から15時というのがシフト上の勤務でしたが、自分が夜勤の時は、必ず重度の方ですが、6時半に来てくれる職員がいて助かるので、自分も重度の方がおられる日は、早目に行くようにさせていただいています。重度の方の支援をしていただいている職員からはあまり大変だと聞くことがなく、重度の方の支援が無理だと判断して、難しくない方の日に支援をしてもらっている職員から、大変だった!と聞くのは、不思議な感じがいつもします。その違いは何なのでしょうか?不思議です.......。


 この章からまとめというか?論文のようになっています。難解さが増していますが....大事なことが書かれています。

 第8章 強迫機制全般に対する自閉症の関係 
私が意図しているのは、あらゆる強迫性の障害の中でこの確かにもっとも原始的な障害で用いられているような仕方での強迫機制の本質的な仕組みを明るみに出すことなのである。勿論、自閉症を一つの強迫性の障害であるとみなした途端、それは病因的な意味合いを伴った疾病分類学的な言明であるように思えるが、そのように意図されているわけではない。

〜基本的な機制は、内的対象と外的対象の分離と万能的な支配とから成り立っている。この言明には、「これこれの目的の為」とか「何何を避けたり防いだり」といった動機づけの追加が必要であるように思える。しかしながら、よく考えて見ると、対象に対する、二次的な動機づけの発展を追加することができるであろう――「分離不安を避けるために」とか「新しい赤ん坊の妊娠を避ける目的の為に」とかである。しかし、それはイドについての言明とは区別しなければならない。イドは、その源泉と目標について言及することは適切であろうが、様式と対象については言及できない。強迫機制は、対象関係における、受動性と対比される意味での能動性の表現として、いわば「それ自体を目的とする」、その原初的な使用を指している。そうではなく、不安に対する防衛機制としてその二次的な使用形態を指すと解されると混乱が生じるのである。それでは、もし対象に対する能動的な関係の一形態のことを単に言っているのであれば、それが何故「万能的」なのであろうか?それは、私たちは、これらの機制を研究する中で、これらの機制は省略的な空想、つまり、変形の手段を獲得するために立ち止まることをせずに願望からその充足への跳躍という因果律の中断を基礎にして作動しているということを認めることができるからである。〜

結局のところ、強迫機制は、強迫神経症者の防衛にそれらが用いられているように、エディプス・コンプレックスの痛みに対するあらゆる防衛の中でも最も「道理にかなった(reasonable)」ものなのである。それは、三者関係の経験を回避することによって痛みを簡単に避けるものである。

〜もっとも、実際にはそれらはどういうわけか幸福そうにはみえないのであるが、転移の中で私たちが常に吟味している現象は、これらの非妥協的な対象が不幸であったり、荒廃したり、反抗したりすることで不安を伴って生じるように見える、部分対象と共に機能している躁うつ病者と同じように、対象は荒廃し迫害的になっているのである。
 私たちは、自閉的規制は対象の経験を感覚および運動の様式に拡散させることで経験を大幅に単純化する試みであるということを見出している。もちろん、それによって、心的出来事と心的経験の間を分ける線を飛び越えてその反対側[心的事象]に落ちるものである[つまり経験ではなく単なる出来事に留まる]。実際、経験は、ほとんど心的なもののようには見えない水準まで引き下げられる。このようなわけで、これらの子どもたちは知的障害があるか器質的な脳の病気に罹っているように見えるのである。