毎日、暑いですね!すろーじゃむのぶたさんも、溶けていました.......。
朝は、雨が降ったので、蔵王山展望台で、階段昇降をしたり、人がいなかったので、展望室をぐるぐる回りましたが、結構ハードでした.....。
午後からは、滝頭公園を50分くらい歩きました!日陰の道があるので、体に優しい散歩コースです。
すろーじゃむワイナリー(ワインヤード?)にも立ち寄り、来年の母枝候補を(今年はまだ短かったので)決めてきました(笑)
肥料は、引き抜いた雑草です(笑)今日も少し草抜きをして、木の根元に置いてきました。
今のところ、実も順調です。
今朝も早目に出勤して、ファミマでコーヒーを飲みながら、本を読みました。
クラインの復習になってしまいましたが、非常に分かりやすく記述してくれていて助かります。
現場で支援をさせていただいていても、躁的防衛によく出くわします。その時には、どうやって抑うつポジションに持っていけるか?を考えて支援をさせていただくと、良い方向に向かうことが非常に多く感じています。
まあ、自分なりの躁的防衛・抑うつポジションになっているかも知れませんが、考え方としては、間違っていないと思っています。
第10章 病的な抑うつと絶望――さまざまな防衛と回復
本章のテーマは、抑うつと回復です。『存在の耐えられない軽さ』という小説のなかで、Milan Kunderaは(1984)、はParmenhdesとNietcheが提示した、軽さと重さとの対立を探究しています。Kundera は、すべての対立のなかで、軽さと重さの間は最も謎に満ち、最も両義的だと述べています。彼は次のような点でnietzsche に同意しています。それは、最大の重荷は耐え難い責任の重み、つまり慈愛の重みによって生み出されますが、その荷が重ければ重いほど、私たちの生は大地に近いものとなり、現実的で真実に満ちたものとなるという点です。他方、荷が全くないことによって、人間は、空気より軽くなり、高みへと舞い上がり、大地や大地的な存在から離れて、半ば非現実的になり、その動きはまるで意味を失ってしまうほどに自由になると、彼は述べています。その小説は、この両義性を探究しています。 私もこの両義性を考えていきたいと思っているのですが、それは「抑うつポジション」の抑うつと病的に抑うつや絶望について考察することによってです。また私は、躁的防衛と「躁ポジション」との区別、すなわち、不幸を否認していることを示す心の状態と、不幸な状態から幸せとおぼしき状態へと逃れようあるいは出ようとすることを示す心の状態との区別について、考えていきたいと思います。ロビーや彼の愛しているすべての人が井戸から飛び出てきたことは、絶望すらも越えるような一種の無気力からの回復を告げるものでした。
Melanie Klein 著作集の編者たちが1975年に解説しているように、Klein は「躁的ポジション」という用語を、抑うつに関する初期の2つの論文で用いました。それは「躁うつ状態の心因論に関する寄与」と「喪と躁うつ状態との関係」ですが、それ以降、彼女はその用語に言及していません(Klein 1975:433)。彼女はまた、「強迫ポジション」という用語も用いていますが、二度とそれを使ってはいません。躁的防衛に関して、Kleinは、以下のようなことを述べています。彼女は、躁的防衛はその基礎にメランコリーと同じ内容を有し、実際、その状態からの逃避の一手段であるとFreudが示していることを指摘しています。Kleinは、躁うつ病が循環的な性質をもつことについての一つの説明を提起しました。彼女が指摘したのは、躁は恒久的な逃避としては働かないということです。なぜなら、愛する対象への依存が苦しくまた危険であるがゆえに自我は自由を見出そうとするものの、こうした対象への同一化はあまりにも深いものであって放棄できないからです(Klein 1935:277)。Segal (1964)は続いて、この問題をさらに詳細に追究しました。たとえば、彼女は次のようなことを示唆しました。それは、躁が、抑うつに対する単なる防衛や逃避ではなく、むしろ、対象の重要性と力を否認したいという願望に表わされた勝利感と軽蔑ゆえに、抑うつの原因としても働くということです。Kleinもまた、躁的防衛について、さらなる視点を付け加えていました。すなわち、彼女は、Freudがかつてしたように、躁的防衛を抑うつと結びつけただけではなく、それが、自我が支配できないパラノイア状態からの避難場所としての役目をもつことも指摘しました。このようにして、悪い対象への恐怖から、躁である必要が増すことがあるのです。これは、臨床技法にとって明らかに重要な問題です。非常に追い詰められながらも、尊大で傲慢な患者が、自分にとって治療者がどれほど価値をもつかという、より深い知を否認するために、常に治療者を卑小で愚かだと感じさせようとすることを、治療者であれば、おそらく皆体験したことがあるでしょう。しかし実際、患者がしているのは、全くそういったことではないかもしれません。患者が治療者を卑小で愚かだと感じさせようとするのは、患者が、自分が手綱を緩めるや否や、治療者は正体を現して真の悪と力を見せつけ、患者に自分が卑小で愚かだと思わせると感じているからかもしれないのです。躁的な患者が抑うつを否認しようとしていると考えるのは、全くたやすいことですが、しかし、患者が否認しているのはパラノイアであることがしばしばです。Kleinによれば、躁にもっとも特徴的な感情状態は万能の感覚であり、それは対象をコントロールし、支配するために利用されます。第二の機制は、特に内在化された迫害者への恐怖とイドを否認する機制です。Kleinは、まず真っ先に否認されるのは心的現象であり、それから、自我はさらに、きわめて多くの外的現実を否認するようになると明言しています。Kleinはまた、内在化された両親への支配と、(のちにSegalが1964年に名づけたところによれば)躁的償い(manic reparation)に向けての試みに付加して、抑うつポジションに特徴的なもう一つの防衛機制を記述しています。これは、良い対象の取り入れです。それは、躁病の場合には、Kleinによると、Freudが記述した「人食い人種的な宴」と同じように、対象への渇望となっていくものです(Klein 1935;Freud 1917)。(躁ポジションについては、より詳細な議論については補遺2を参照)〜