うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

つぐ茶と、菊の花と、水まんじゅうと、【Brazelton の観察では、母親は見つめるだけでなくない軽く叩いたり、さすったりすることもします。】


 もう7月ですが、前半戦の書類などが完全に終わったので、後半戦も何とか無事に過ごせるように、仕事場の神さんに、先日頂いた、つぐ茶と、今日頂いた菊の花(一つ折れてしまったので、花だけを水に浮かべました。)と、明けで何やかと帰宅が夕方になり、帰りにパワーズで安売りしていた水まんじゅうを買って来て供えました。
 気持ちを切り替えて、後半戦に臨みます!

 津具茶というのは初めて知りましたが、下さった方の在所があるようでした。
懐かしい味がしました!

 菊は、明日投げ入れようと思っています。




 明けの直後に、マックで一息つきながら、打ち込んでいた箇所のアップですが、非常に具体的な記述です。

 下記は、現場で、重度の方の支援を考える時によく思うことでもあります。

『まず最初に対して彼女は、そのひきこもりのひどさにしばしば打ち負かされたと感じ、落ち込みました。しかし、彼女は次第に、彼自身の圧倒的な絶望に持ちこたえるという意味で、彼の破壊的なほどにひどい拒絶に生き残って、また彼のために戦うため、力を奮いおこしました。彼女は、二人の間には細い糸のような接触しかないという感じを記述しはじめました。その糸を彼女は「つかまえようと努力し、可能であればできるだけ早く利用しようとしました」その理由は、彼女が言うには、「私がそれを直ぐに捉まえることができない時、彼は遠い世界へと落下し、ますます積極的に私を遠ざけようとすると感じられるからです。私は彼と何らかの接触をもとうとして多大な努力を払う必要があるという感覚を持っています。」』






生きている仲間――知性をもち生き生きとした対象への欲求

 〜Brazelton の観察では、母親は見つめるだけでなくない軽く叩いたり、さすったりすることもします。もちろん、私は、自閉症や精神病の患者に対して、治療者が叩いたりさすったりするような行為をするべきだと示唆しているのではありません(ただし、時には、子どもの注意を自閉的な行為から引き離し、より接触へと引き入れるために、子どもが叩いている手を止めることが有益であることを見いだしている人々もいます)。むしろ私が指摘したいのは次のことです。つまり、健常な赤ん坊の、陽の差し込んでいるところや匂いだけでなく、人間の顔や声に焦点を合わせるのを助けるこうした母親の活動は、決してただ充足させるだけのものでもなければ、ただ落ち着かせるだけのものでもないということです。そうした活動は、いかに優しくまた繊細になされたにせよ、注意喚起的で、明らかに面白いものなのです。


もちろん、年月が過ぎ、ロビーがより長い期間、接触を保ったままいることが可能になると、人々は、彼がその時にはほとんど必要ないやり方で漂っていたように見えたため、しばしば彼に向かって大声で呼びかけました。こうした呼びかけは、たいてい、望ましくない結果を生みました。というのも、それは受動性のなかで悦に入っている彼のあり方を助長したからです。そのため私は、大声で叫ぶことや劇的な命綱の救助作業を、通常の技法としては推奨していません。Joseph やRosenfeld らによって例証されているようになった転移と逆転移における最近のKlein 派の仕事は、そういった劇的な瞬間を、患者の注意や信頼や希望の喪失に対する、そして自分自身のそういったものへの喪失に対するより注意深い、日常的に継続して用いるアプローチへと変えるために、何を学ぶべきかを教えてくれます(Rosenfeld 1987 ;Brenman Pick 1985の「逆転移におけるワークスルー」も参照のこと)。初期のころ、私自身の注意は、ときおり、ロビーのそれと同じくらいでしたほとんど弛緩しているか、たるんでいたのではないかと思います。というのも、ほとんどの間、彼の頭の中に誰かが実際にいるなどということはとても信じがたかったからです。Coltrart(1986)とSymington(1986)は、彼らの患者に対する同じような劇的な瞬間の効果を記述しています。私はその患者への特別の瞬間が与えた絶大な効果については同意します。しかし、治療者の仕事は、以下のようなことを、自分自身のうちにいつも意識しつつあるように、こうした体験を翻訳することだと強調したいと思います。それは、非常にひきこもった患者たちがどれくらい遠くまで落ち込み、流されてしまっているかということ、そして患者がその只中にいる危険に対して、そして患者が自分に生きている仲間がいることをようやく発見する時に患者の体験や患者自身のもつ人間としての可能性に対して、一貫して繰り返し注意を呼び起こすために何が必要かということです。適当な集中治療が可能な場合は、緊急的な救命作業は、必ずしも必要ではないかもしれません。
 私は第4章で、患者の人格の全てが失われる状況、自分が生きていることが分かっているというまさにそのことすら失われるような状況判断あることを示唆しました。すでにあきらめてしまった患者たちは、真に希望を失っており、希望を放棄しています。彼らはそれを投影しているのではありません。ここでStrachey とRosenfeld の言葉を言い換えると、補助イドとして機能しなければならないのかもしれません。あるいは、Klein 派の言い方では、生きていると感じる自己の部分を患者のために担わなければならないのかもしれません。そして、このことには、ほぼたえず大変だ、用心せねばと感じることが含まれるでしょう。これは治療上、適切であるだけでなく、実際、不可欠でもあります。R博士はトリノの大学病院でアレッサンドロという非常にひきこもった自閉症の男の子を治療し、同様の現象を記述しています。まず最初に対して彼女は、そのひきこもりのひどさにしばしば打ち負かされたと感じ、落ち込みました。しかし、彼女は次第に、彼自身の圧倒的な絶望に持ちこたえるという意味で、彼の破壊的なほどにひどい拒絶に生き残って、また彼のために戦うため、力を奮いおこしました。彼女は、二人の間には細い糸のような接触しかないという感じを記述しはじめました。その糸を彼女は「つかまえようと努力し、可能であればできるだけ早く利用しようとしました」その理由は、彼女が言うには、「私がそれを直ぐに捉まえることができない時、彼は遠い世界へと落下し、ますます積極的に私を遠ざけようとすると感じられるからです。私は彼と何らかの接触をもとうとして多大な努力を払う必要があるという感覚を持っています。」R博士が記述したこの感覚は、精神病状態そのものが、自己と体験を死なせ、非人間化し、いったん進行しはじめたなら、それ自身の引力を持ち、それに対して治療者は全く無力になるかもしれないという私自身の感じと同じものです。こうして、そうした攻撃から生き残るために、「多大な努力」が求められるかもしれませんが、しかし、また患者がより一時的に近づきやすい状態にある時に彼を捉まえ、そこにとどめておくことも必要とされるかもしれません。崖っぷちにいるという切迫感は、ある種の患者に対してある時には、患者が自分自身ではまだ担うことのできない何かを患者のために担うことと関係しています。