うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

自動火災報知器工事と、うたたね職員懇親会と、【自閉−隣接ポジションでの内在化】(自閉症スペクトラムの臨床より)



 今日で自動火災報知器の設置が完了しました!
消防が検査しに来る前に、業者さんがやって下さった様です。
 設計士さんがきちんと立ち会って下さっていました。
病院を設計されたこともある設計士さんなので、本当に安心です!





 今日は、うたたね職員の懇親会が、渥美の角上楼さんであり、理事の松本先生と理事長の挨拶で始まりました。
 地魚を使ったコースでした。
お風呂は入りたい方だけ入りましたが、気持ちよかったです。
 103万円や130万円の方々には賞与が支払えないので、理事会からのささやかなサプライズでした。





 雰囲気のあるお店でした。



 ねこのいる宿という本が置いてあり、見ていると角上楼さんが出ていました。そのねこはどっかに行ってしまったとのことでしたが、帰る時に、ねこさんが見送りに?来てくれました(笑)




 早番で入らせて頂きましたが、重度の方を見送らせて頂き、掃除・洗濯をがーと(笑)片付け、時間があまったので、少しだけ本を読ませて頂きました。
 第13章に入っていますが、アップは先日の第11章の続きです。ウィニコットの箇所は本当に参考になりますので、赤字にさせて頂きました。


【自閉−隣接ポジションでの内在化】
 先に述べたように、個人に内的空間があったとしてもごくわずかしかないような心理学的領域では、内在化という概念は実際には意味のないものとなる。これは、内在化(同一化や摂取を含む)という考えが、他者の部分や全体を自分自身に取り込むことについての意識的または無意識的空想という概念と関連づけられる場合に、特にあてはまる。それにもかかわらず、自閉−隣接モードで、外的対象の経験から心理学的変化は生じ得るし、そのような変化は、模倣という過程によってある程度はもたらされるのである。自閉−隣接形式の模倣では、外的対象との個人の関係が影響した結果、その個人は表面の形態に変化を経験するのである。空想において他者の性質や部分を貯蔵できる内的空間を持っているという経験がないため(Gaddini,1969)、時に模倣は個人が対象の属性にしがみつくための数少ない方法の1つなのである。自閉−隣接モードでは、中に入りこまれるという感じや空想は、引き裂かれ、あるいは穴があけられるのと同義であるため、模倣によって他者の影響を自身の表面に持ち込ませる。これは時に、病理的自閉状態では反響言語として、すなわち他の人が言ったあるフレーズや言葉の終わりのない繰り返しとして、顕在化する。
 ある程度の自己のまとまりを達成する手段である模倣は、偽りのない自己パーソナリティ構造体というウィニコットの概念と区別されなければならない。自閉−隣接の模倣は、内側にあるもっと真実でもっと本物の何かと対照をなし、それを偽装し保護したりすることはないので、そこには偽りというものはないのである。つまり、内側も外側もないのである。自閉−隣接モードでは、人とは人の表面なので、模倣という活動は、その上に自己の中心が発達できるまつまりある表面になったり、それを取り戻したりする努力なのである。模倣は、物事の受け止め方、防衛、他者に「しがみつく」(他者に形作られる)方法として機能しているだけでなく、自閉−隣接モードにおける対象関係性の重要な形式として機能しているのである。
 私は以前の論文で(Ogden,1980)、ある入院中の慢性統合失調症患者との作業の様子について記述したが、彼は物と人が完全に互換性をもって扱われるまでに意味が削ぎ落とされた世界に何年も住んでいた。フィルは、私の面接室の床に寝そべっているとき、あるいはある院内「活動」から別の「活動」へと伴われているときには、心理的に死んだようにみえた。治療における私との最初の接触の形式は、私の姿勢、私の声の調子、私のあらゆる仕草、私の話したあらゆる言葉、私に作ったあらゆる顔の表情を模倣することによって行われた。これを私は、彼が生者の国へと参入してきたものとして喜ぶよりも、生きていると感じられる私の能力への攻撃としてその時には経験したのであった。まるで私の自発性が不当に奪われたように感じた。私のなすことすべてが自然に感じられなかった。 
 当時私は、これを彼自身の活力の無さや自発性の無さと同じく、どうしても生きていると感じられないことを私に生じさせている(私にコミュニケートしている)投影同一化の1つの形式として、理解していた。しかし、
患者が私を模倣することにある情緒の性質を味わうには、ここで述べている現象が自閉−隣接的なものであると十分に理解していなかった。彼は私を代理皮膚やコンテイナーとして使用し、その中で彼は生きているとはどういう感じなのかを原初的なやり方で実験していたのだった。それが、私の皮膚になって、その中で実験するためであるのを示すことで、確かに彼は私に敬意を払っていたのであった。
 ィニコットはマイケル・フォーダム(Michal Fordam)宛の手紙で、自閉症児の治療の観点から、対象関係の原初的形式としての模倣の役割を述べていた。




 私は、巧みな解釈で治療され、そしてこれまで何とかなってきた、ある自閉症児を知っています。しかし、治療を動かし始めたのは最初の分析家がした何かであったのです。そして、私がこれから記述しようとしていることの重要性を私が2人目の分析家に認識させられないままであったのは、おかしな話です。最初の分析家であるメイダ・ホール医師は、亡くなられました。ホール医師は、この少年は通常の発達の後に自閉的となってしまったと理解し、そして面接室で彼と一緒に座り、この少年が行ったすべてのことをすることで、コミュニケーションを確立しました。彼は15分ほど座ったままでいて、それから脚をごくわずかに動かすと、医師も自分の脚を動かしたのでした。少年の指が動くと、医師は模倣します。そしてこのようなことがずっと続くのでした。こういう端緒にはじまって、彼女が亡くなられるまで、さまざまなことすべてが発達し始めている兆候を見せ始めました。頭のいい分析家に、こういったことをするようにさせることができていたら、誰もがたくさんの良い作業がなされて気に入っているのに、肝心な子どもが満足いく状態になっていないといった、よくあるひどく苛立たしいケースに耐えなければならないかわりに、今頃は治療のようなものを得ていたかもしれません。[Winnicott,1965、p.150-151]



 自閉—隣接モードでの模倣は、小児自閉症、ボーダーライン状態、統合失調症を病んでいる患者に限られたものではない。訓練初期のセラピストが、セラピストとしての自分自身のアイデンティティの欠如から目をそらすために、自分の先輩や自分自身のセラピストを模倣しようとするのは、よくあることである。そのようなセラピストの1人は、この経験を、患者といる時には「スーパーバイザーの皮膚を使う」と述べた。この「皮膚」は、2番目のスーパーバイザーが訓練生の作業に批判的であると「はがされる」と感じ、訓練生は苦痛な「むきだし」を感じるようになる。そうなると、彼はすぐに「2番目のスーパーバイザーの皮膚を身に着け」ようとした。[自分自身の]心理療法では、この[セラピストである]患者は自分の患者の問題を自分自身のものとして提示することで、患者を模倣し、このようにして彼は、出すべき自分自身の声がないという感覚に気づくことを防衛していた。そのかわりに、この患者は、自分自身の声の代用となるよう、必死になって自分のセラピストに解釈やアドバイスをさせようとした。〜