うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

玉露の淹れ方と、『第8章 神経症患者における自閉的現象』(自閉症スペクトラムの臨床より)


 今日は日曜日ですが、珍しく休みでした。
日中は賑やかでしたが、シッカリした職員さんがいたので、安心して休ませて頂きました。
 玉露の淹れ方を習って、

 自宅で淹れてみました。一番安い玉露でしたが、普通に美味しかったです。
お茶屋さんで、お茶葉を12種類そのまま食べさせて頂きましたが、高価なお茶の葉は、そのまま食べても美味しかったです。自死した母親がよくお茶の葉を食べていたのが、この歳になって分かりました。
 母親は35歳で自死しましたが(笑)
 普段に飲んでいるお茶に良い食塩とか、本だし、味の素等丁度良い分量を入れたら、もしかして玉露になるのでは(玉露の味に)?と思いましたので(笑)今度やってみます(笑)邪道ですね(笑)
 成功したら、貧乏人でも毎日、玉露気分になれるかも!です(笑)

日課のギターと読書は、頑張りました......。




第Ⅱ部 大人の自閉的特徴
第8章 神経症患者における自閉的現象
H.シドニー・クライン
 近年、患者のパーソナリティの神経症的側面の背後には、本当の安定性を確保するために扱われなければならない精神病的問題が潜伏していると、分析者の間でしだいに認識されてきた。このことは、パーソナリティの日精神的部分からの精神病的部分の識別に関する全く独創的なビオンの論文によって、特に強調された(Bion,1957)。しかし、私はこのことがまだ充分に理解されたと思えない。私の分析実践の進捗や、特に私の患者のコミュニケーションで常用される様式を、定期的に見直すなかで、私は、最初は軽度の神経症にすぎないと考えていた患者のなかの幾人かは、そのなかには分析の候補生もいたが、治療の経過中に自閉症児の治療に馴染のある現象を表わすことに、気づき始めた。こうした患者はとても知的で、勤勉で、地位もあり、専門的にも社会的にも卓越してさえいて、普段は愛想がよく好感が持て、表向きは職業的理由か、夫や妻との満足な関係を維持するのに失敗したためのどちらかで分析に来た。分析は目に見えて進み、夢は定期的に提供され、そして進展が報告されるにもかかわらず、私が触れることのなかった患者のパーソナリティの部分があるということが、徐々にはっきりとしてきた。私には、なんら本物の根本的な変化は起きていないという印象があった。ウィニコットが偽りの自己(Winnicott,1960)と呼んだもの、ローゼンフェルトがパーソナリティにおける「精神病的孤島」(Rosenfeld,1978)と称したものと明らかに類似しているが、彼らの残りのパーソナリティの部分と分析家の両方から患者を切り離す、一種の自己の不可入性の包嚢性カプセル化として表現されるかもしれないことを、こうした用語が本当に正しく表しているとは思えない。このカプセル化そのものは感情の希薄さや平坦さに表われていて、分析家を唯一の人生の拠り所とした絶望的で執拗なしがみつきを伴い、根底にある倒錯的な不信感と、解釈とは無関係な分析家の声のトーンや表情がなによりも大切にされる。敵意に常に備えていて、そして少しでも分析家の苛立ちや非難がありそうなら、すぐに迫害と受け止める傾向がある。分析家は、とても力強い全知の人物であると意識的に理想化され、患者の夢の中にもそのような姿で現れる。それに伴って、夢やその他の分析的素材が後になってもたらした証拠であっても、患者はその迫害感情を否認する。〜



要約
 職業的生活や社会的生活では見かけは成功していて、表向きは職業的理由や人間関係の些細な不和のために分析を求めるある患者のグループについて記述してきた。しかし遅かれ早かれ、彼らはいわゆる自閉症児に観察される現象と驚くほど似た現象を露呈し始める。これらの自閉現象は、パーソナリティ部分の一種の不可入性カプセル化緘黙と変化への頑なな抵抗、そして彼ら自身や分析家との本当の情緒的接触の欠如で、特徴づけられる。分析の進展は、根底にある痛みや死、そして解体や崩壊への激しい恐怖を顕にする。こうした不安は、現実の分離や懸念される分離への反応として、特に分析への関与が深まった時に生じる。私が詳細に記述したケースでは、苦痛な感情を分析家を含む他者、もしくは自分自身の体内にそらすために、さまざまな投影プロセスを駆使した。その結果、望まない感情をコンテインしなければならないために、さまざまな対象や身体器官は怒りで膨れ上がり、そして充満した。この過程は次に、強烈な迫害恐怖と分析家の声色と表現に対する亢進した敏感さにつながった。パーソナリティの一部分の始原の過敏性は、危険に対して警戒させ、感情が意識に至る前に、それを排出するほどになるようである。患者のこの隠された部分の存在にすぐ気づけば気づくほど、分析が終ることのない無意味な理論的対話になってしまう危険性は減少し、患者が比較的安定した平衡を得る可能性が高まる。分析家は患者と共に、多くの不安を乗り越えなければならないが、最終的にもたらされる結果は、時間と労力を費やす価値があると思う。