うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ビーサン生活開始(笑)と、【私がパースペクティブの重要性について思索するようになったのはとても非常にひきこもったある種の患者が新しい体験へと初めて覚醒するのは、それが彼ら自身のうちに起こりつつある時ではなく、むしろ誰か他者のうちに起こっていると見た時である】


親分が340円で買ってくれた(笑)ビーサンを昨日から履きだしました!
去年までは、しまむらの500円のビーサンで3年間(夏だけですが)もちましたが、これはどのくらい持つでしょうか?340円ですが前のよりは上等そうに見えます(笑)




 キャンプ前に入れた、蓮の花は、まだ開いてはいませんが、元気です!
書類などに目を通していたら、もうこんな時間!
夜勤の時間が迫って来ました!アップしたら行って来ます(笑)




 下記は、現場でも無意識のうちに、支援の中でも行っている時があります。

 『母親は、自分の頭が乳児の視野の中心にくるように絶えず頭を動かし、乳児の目線と自分の目線を同じ高さにする。母親はまた、焦点を合わせない注意を集中する乳児の能力の限界に配慮しているかのように、適切な距離(生後2、3週間の間は20〜25㎝)を維持しようとする。」このPapousek 夫妻の研究は、近接性という変数がいかに重要であるか、そしてそれが乳児が成長するにつれていかに変化するかを示しています。』



 下記も、現場で感じる事でもあります。

『注意深く観察すれば、他の人々に台後半そうした感受性の証拠が、間接的に示されるかもしれません。彼らの感受性は、実際はしばしば過剰なほどなのですが、子どもの反応は遅れ、偽装され、混乱していることがしばしばです。それゆえ、それぞれの子どもに特有の手掛かりを十分、研究しいる注意を向けることなくしつは、解読は不可能です。さらに問題なのは、そうした子どもが防御のためにとるやり口が使い古され習慣となっているために、子どもは本当に鈍感になっており、それゆえ差し出された普通の人間的な接触や助けの多くを用い、同化することとできないということです。』






〜明らかに、その要素は母親と乳児の見つめ合いの行為においても、意義があります。Papousek&Papousek (1976:77)によれば、生後数ヶ月の乳児をもつ母親は、「いつも自分ではほとんど気づかない動きに多く行っている。その動きは、乳児と相互に視覚的な接触を得ようとする試みとして解釈しうるものである。 …母親は、自分の頭が乳児の視野の中心にくるように絶えず頭を動かし、乳児の目線と自分の目線を同じ高さにする。母親はまた、焦点を合わせない注意を集中する乳児の能力の限界に配慮しているかのように、適切な距離(生後2、3週間の間は20〜25㎝)を維持しようとする。」このPapousek 夫妻の研究は、近接性という変数がいかに重要であるか、そしてそれが乳児が成長するにつれていかに変化するかを示しています。
私がパースペクティブの重要性について思索するようになったのはとても非常にひきこもったある種の患者が新しい体験へと初めて覚醒するのは、それが彼ら自身のうちに起こりつつある時ではなく、むしろ誰か他者のうちに起こっていると見た時であることを観察したためです。以前、私はこれを投影の機制の結果とみなしていましたが、今は、それは誤った定式化かもしれないと思っています。というのは、投影という概念は、それが投影同一化という、より洗練されたKlein 派の概念であっても、体験が自己の外で起こっているにも関わらず、自己の内に根ざしているはずであるという含みをもつ傾向が過去にはあったからです。すなわち、投影された体験は、もともとは患者の自己に由来し、のちに自分のものとは認められなくなったはずだということです。しかしながら、Spillius とJoseph は、投影同一化という用語は、しばしば、投影されているものが患者の自己の一部ではなく、探索を必要とする内的対象の一側面であるような状況を指すために用いられるという事実に注意を促しています。したがって、患者の内的世界の一部が外界に投影されるのですが、それは必ずしも患者の自己の一部とは限らないのです(Spillius 1988a;Joseph 1978:112)。

乳児が情動的、認知的に発達していく上で、一貫した養育者との人間的な生き生きとした交流が重要であるという発見は、すでに私が述べたように、ひどくひきこもった子どもたちや自閉症児の治療者に、重要な技法上の問題を提起します。というのは、生気のある生きている仲間と対人接触への希求やそれらへの明白な応答性は、まさに自閉症児の場合、当たり前に備わっているとはみなされないからです。しかし、注意深く観察すれば、他の人々に台後半そうした感受性の証拠が、間接的に示されるかもしれません。彼らの感受性は、実際はしばしば過剰なほどなのですが、子どもの反応は遅れ、偽装され、混乱していることがしばしばです。それゆえ、それぞれの子どもに特有の手掛かりを十分、研究しいる注意を向けることなくしつは、解読は不可能です。さらに問題なのは、そうした子どもが防御のためにとるやり口が使い古され習慣となっているために、子どもは本当に鈍感になっており、それゆえ差し出された普通の人間的な接触や助けの多くを用い、同化することができないということです。