うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

立春大吉まみれ(笑)と歌人鳥居と、【転移と逆転移における自閉対象】


 立春の今日、夜勤明けの無防備な頭の中に『立春大吉』が溢れ出して(笑)
何故か?『立春大吉』祭り(笑)
 ふざけた鰯を作ろうと思いましたが、稚拙なだけの鰯になりました(笑)


 裏のお地蔵さんにも


 玄関にも『立春大吉』(笑)
 
 そういえば、京都のみやこめっせのグッズに、おっちゃんが書いた『山紫水明』の麻のコースターが選ばれ(笑)一時期販売されていました(笑)
おっちゃんの汚い字が......。本当、笑い話ですね!
ちょうどイタリアで作品展をしようとしている時期でした。




 夕方、パソコンを打ち込んでいたら、NHKでNEXT・未来のためにで、『響き合う歌・歌人 鳥居と若者たち』が流れていました。

 いきなり、『花柄の籐籠いっぱい詰められたカラフルな薬 飲みほした母』にガツンとやられてしまい、しばらく呆然と画面だけを見つめている自分がいました......。

 大変な人生を歩んだからこそ、歌える歌があるんですね......。
キリンの子、是非手に取ってみたいと思いました。



 

 ぼーっとした頭でしたが(笑)少しだけ本を読ませて頂きました。
福祉の現場でも、心しないといけないことが書かれている気がしたので、アップさせて頂きました。

 分かったつもりや、出来た気になっているのと、本当に支援出来ているのは違うということですね....。
どうしても自分の情緒に負けてしまって、利用者さんの自己愛ではなく、自分の自己愛を押し付けてしまっている場面が沢山あるのでしょうね....。難しいですが、本当の支援が出来るように頑張りたいとも思いました。

シューマッハ・フィンネル(Schumacher Finnel,1985)が言っているように「分析家の中の自己愛は、必ずしも患者の自己愛に対する反応ではないかもしれない。むしろ患者の病理からかけ離れてさえいるかもしれない」。シャセギュエ・スミルゲルとグルンバーガー(Chasseguest-Smirgel & Grunberger,1979)は、同じ線に沿って、分析家として私たちは自分の自己愛を患者に押し付けてはならないし、そのような可能性に気がつかなければならないと言っている。分析家は本来は患者に属している自己愛を患者に返すかわりに、分析家自身の自己愛を患者の自己愛として押し付けるかもしれない。患者が誰であるかを発見する替わりに、分析家として私たちが自分のイメージを被分析者の中へ押し込めるなら、結果は模倣する被分析者か、あるいはイメージが生き写しの分析者の似せ絵になるだろうとガッディーニ(Gaddini,1969)も言明している。』




 《第10章 自閉対象》
【転移と逆転移における自閉対象】
 〜カナーはそのような状況での解釈は、ガラスの鏡の穿孔、能動的な切り込みという特色を持つはずだと指摘している。リバーマン、ロドリゲ、タスティンがこの現象の記述で使う言葉は「接近できない」、「無反応」、「硬い」、「鏡」、「ガラス」、「穿孔」、「切り込み」といったようみ、ほぼ一貫している。けれどリバーマンとロドリゲは、ナルシストの特性をもつ、より包括的なタイプの関係に言及していて、彼らは自閉対象という概念を使っていない。臨床的に、これらの現象が自己愛というもっと包括的で広大な状況に従う場合と自閉対象の出現によっている場合とを見分けることが可能だと私たちは信じている。しかし後者は、自己愛的と記述されるさらに広大な現象の統合であるのかもしれない。まさしくそのような状況においてこそ、治療関係の双方の関与者の自己愛的構造を自ら持ち込んだり隠したりしながら自己愛的な過程を統合し結晶化するものが、おそらく自閉対象なのではないかと私たちは言いたいのである。
 ボッシャン(Boschan,1987)は、自閉的な現象そして自己愛的な返照を探知するために逆転移的側面の重要性を強調し、逆転移における自閉的防衛を自己愛的防衛と区別している。自閉的タイプの様相は、思考が支離滅裂で思考できない逆転移的状況を引き起こす。そして自己愛的様相は、反応の欠如による欲求不満を引き起こし、さらに患者の無関心は分析家に、素材に対する不注意、苛立ち、忘れやすさをまたらす。
 転移自閉症逆転移への影響がプアルアン(Pualuan)によって1979年に記述されたが、彼は患者が分析家や自分自身との接触から撤退して回避することが、逆転移自閉症という総称で呼べるかもしれない現象を生み出すこともあると指摘していた。この特徴は、自閉症的転移の様相のある患者の逆転移的記録でボッシャンが記述していたものと類似している。私たちの見解では、分析を受けている患者によって、分析家自身の対象が喚起され、気づかされる際に、分析家は自分自身の対象と接触するだけでなく、自分自身の対象を患者に押し付ける過程へと変形する危険性を伴うもので、、分析過程の発展を危うくさせるのである。分析家は自分自身の自閉的対象によって、患者を「魅了する」ことができるだろうし、両者によって創造された「自閉的繭」を級友し合える。患者は分析家側の動静の埒外にある厳密に確立された理論に魅了される反応を示すかもしれない。したがって双方が理論という「繭」の中に入り込み、おまけに分析家はその臨床的裏付けを心に刻む。もし患者が分析家の理論を受け入れず、それに魅了されることも、それに由来する解釈を受け入れることもなければ、分析家の概念化や振る舞いにおいて、彼は患者の反応を、嫉妬や攻撃的な器質的衝動等のような「行き詰まり」として、陰性治療反応として考えてしまうこともありえる。これら新しい二次的な理論は、分析家自身の「自閉対象理論」に関して患者から裏付けや整合性が得られないことに直面した分析家が感じる空虚さやギャップを埋め合わせることに用いられるかもしれない。もし患者が理論に反応しなければ、分析家は混乱し統一性を欠きやすくなりがちである。この場合、彼は仲間やスーパーヴァイザー等、他者からのサポートを求めるかもしれない。分析家は自分が提示した逆転移性の「繭」
の中に身を置くことに賛同しなかった患者から反応が無かったことで生じた解体する感じから、自分自身を防衛するだろう。スーパーヴァイザーの助言は、患者に「繭」の中へ入るようにという新しい提案として使われがちである。
 シューマッハ・フィンネル(Schumacher Finnel,1985)が言っているように「分析家の中の自己愛は、必ずしも患者の自己愛に対する反応ではないかもしれない。むしろ患者の病理からかけ離れてさえいるかもしれない」。シャセギュエ・スミルゲルとグルンバーガー(Chasseguest-Smirgel & Grunberger,1979)は、同じ線に沿って、分析家として私たちは自分の自己愛を患者に押し付けてはならないし、そのような可能性に気がつかなければならないと言っている。分析家は本来は患者に属している自己愛を患者に返すかわりに、分析家自身の自己愛を患者の自己愛として押し付けるかもしれない。患者が誰であるかを発見する替わりに、分析家として私たちが自分のイメージを被分析者の中へ押し込めるなら、結果は模倣する被分析者か、あるいはイメージが生き写しの分析者の似せ絵になるだろうとガッディーニ(Gaddini,1969)も言明している。シドニー・クライン(第8章)は自閉対象について特別に語ることはなかったが、分析家が気づかないかもしれない、そしてもし気づかなかった場合には分析を実り内停止状態へ変形しそうね、神経症患者に診られる自閉症的現象について言及している。
 後の著者たちはこれら自閉症的転移現象と自己愛的転移現象の探知と解決のために、逆転移の重要性を強調している。自閉症的転移は、患者の情動反応に酷似した姿で反響する、分析家の情動反応を通してもに探知することができる。分析家と患者の部分的融合が自閉対象を統合して確立するのかもしれないが、分析家は何が起きているのか気づかない。他のケースでは、患者は分析家が反応するようにせき立てるように振まい、そしてこの状況は繰り返される。患者の行動は、分析家にはお馴染みの紋切り型の意味を持っているが、患者にとっては同じではなく、この行動は自閉対象になるのである。その他の著者たちが記述した転移現象と逆転移現象は、自閉対象の性質が作りだす硬直、不動、固さ、ボーダーライン性をおそらく持ってはいない。それらはより解釈しやすくもある。