うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

槿の花と、コーヒ豆のネクタイ(笑)と、【ハイドンは予想もしない音で私たちを驚かせ、モーツァルトは予想した音で私たちを驚かせる。 Alfred Brendel】


 先程、ひーひー王子との散歩で、槿の花を頂いてきました。やはり、ススキがあった方がよいので、明日の朝の散歩でススキを頂いてきます。
 槿を見ると、夏を感じてしまうのは、自分だけでしょうか?
毎日、なんやかんやで(笑)バタバタしてしまうので、心を落ち着けました。

 来月、最初に働いていた施設で担当させて頂いた方が、利用して頂けるので、親分が面談してくれました。そういうのが本当に嬉しいですね!今月は、同じ施設で担当させて頂いたことのある方のお母さんからもお電話いただき、非常に嬉しかったです。きちんと仕事させて頂いていたら、そんなこともあるのですね!これを良い機会として、自分たちの支援を見直す機会にさせて頂きたいとも思いました。


 人に伝えるというのは、本当に難しく、自分は若い時に本当に働いたし、いつ寝ていたのか?も分からない生活もしていたので、もういつ死んでも、あまり後悔はないって言っても、死にそうといったと勘違いされ(笑)そんなこと言う人ほど長生きする!って言われました(笑)個人的には、長生きはしたくありませんし、海老蔵さんのニュースで奥様が亡くなったというのを見ていて、34歳でしたね....。自分の母親が自死したのは35歳だったので、本当に若かったですね.....。おやじが亡くなったのは小脳出血で64歳。自分は、後何年でしょうか?(笑)まあ、おやじみたいに、アル中ではないので、もう少し生きるのでしょうか?しかし、おやじの千倍は今まででも働いたと思います(笑)。おやじは45歳くらいからアル中になってまともに働いてなかったですから(笑)
 まあ、天命をまちます(笑)。


 用事で豊橋に出て、ちょっと休憩したくて立ち寄ったコーヒ屋さんに、コーヒ豆のネクタイが売っていました。
ちょっと欲しかったですが(笑)高かったので我慢しました(笑)
肩こりが酷いので、ノン・カフェインのコーヒを頂きました。


 今日は休みでしたが、なんやかんやあり(笑)すきを見て読ませて頂いた箇所のアップですが、非常に分かり易いけれど、重要な事が書かれていましたので、明日も続きをアップさせて頂く予定です。
 明日は、歯医者さんに行ってから夜勤です!

 下記は、今回で一番読んでほしい箇所です。

『明らかに、通常の母親はある程度まで赤ん坊のひきこもりを許し、尊重していますが、彼女はまた、やさしくではありながらも、能動的な役割をとり、赤ん坊を自分との交互作用の中に引き戻すのです。苦痛が大きすぎると、夢想や包容と似たものを生み出す何かを喚起しますし(Bion 1962)、ひきこもりすぎると、接触へ戻すように細やかに引き上げることを喚起します(Brazelton et ai.1974;Trevarthen 1984;Stern 1985)。』




第5章 再生と生きている仲間――養育者と乳児の関係において通常それらに対応するもの

 ハイドンは予想もしない音で私たちを驚かせ、 
 モーツァルトは予想した音で私たちを驚かせる。   Alfred Brendel

さて私があらためて問いたいのは、前章で述べた治療者の応答に相当するようなものが、通常の母性的機能の中に何かあるだろうかということです。絶望的に病んでいる患者の内の絶望的な状況にむけられた、注意の喚起や切迫感や集中的な世話や反響定位や共感といったものとつながる、「再生する(reclaiming)」活動は、普通の母親と普通の赤ん坊とが関わる中でのより通常の「注意を引く(claiming)」活動と何か関係があるのでしょうか。私はまず、ありふれた再生と思われるかなり明瞭な例をいくつか検討し、それから「注意を引くこと」に近いものをいくらか含んでいると思われる活動について論じていきたいと思います。
 Bion(1962)の母性的包容という概念について、みていきましょう。彼は母親が夢想を通じて、どのようにある種の心的消化をやり遂げるのかということを記述しました。そのような心的消化は、より成熟した心的消化過程のおかげで、母親に赤ん坊の苦痛や怒りや恐れを耐えられる形で体験することができるようにします。母親はこうして過度に巻き込まれてパニック状態になることなく、ひどく気持ちを切り離してしまうこともなく、赤ん坊をなだめ落ちつかせられるようになります。Bionはこれを健常でありふれた母性的機能として論じています。しかしながら、考えるべき重要なことが他にもあります。普通の赤ん坊が少々抑うつ状態の時に普通の母親がすること――つまり、赤ん坊が苦痛を表現したり示したりしている時ではなくて、一時的に興味や希望を失ったりいくらかひきこもってしまっているため、赤ん坊が苦痛を示すのに失敗している時のことです。私が言いたいのは、母親の機能には赤ん坊に注意を喚起させ、覚醒させ、活気づける部分もあるということなのです。
 子どもの発達における母子間の相互作用についての研究は次のような示唆を与えてくれるように思います。つまり、交互作用的な接触はリズミックで周期的であり、その起伏が上がるのは下がるのと同じくらい重要で相互に求めあっているものであり、注意を喚起し覚醒させる機能はなだめる昨日と同じくらい意味があるということです(とはいえこれらはごく幼い赤ん坊や特にデリケートな赤ん坊との間では、めだたず、非常に細やかに行われています)。それらの研究は、強度の曲線といったような考えや、一種の波動関数や、輪郭を描くことや、リズムをとることや、後に静寂が続くことになる強烈な期間や、後に退却や穏やかなひきこもりや孤立が続くことになる強い相互的なやりとりを指摘しています。明らかに、通常の母親はある程度まで赤ん坊のひきこもりを許し、尊重していますが、彼女はまた、やさしくではありながらも、能動的な役割をとり、赤ん坊を自分との交互作用の中に引き戻すのです。苦痛が大きすぎると、夢想や包容と似たものを生み出す何かを喚起しますし(Bion 1962)、ひきこもりすぎると、接触へ戻すように細やかに引き上げることを喚起します(Brazelton et ai.1974;Trevarthen 1984;Stern 1985)。
 私が最初に再生という考えをめぐらせはじめたときには、まだ乳幼児発達の研究成果を読んでいませんでした。しかし、ある二人の健常な乳幼児の観察記録を読んで、ロビーの長い長い靴下には完全に正常なものがいくらか内包されていたのだ、と私は感じました。観察記録のうちの1つは、ルーシーという小さな女の子の赤ん坊です。その子は離乳が早すぎ、普段の陽気な自己と比べて幾分抑うつ的でひきこもるようになっていました。その観察の間、母親はひざまずいて赤ん坊に向かい、たゆまず気づかい、共感的で、その日には以前授乳していたときよりもはるかにたくさんのものを自分の表情や声を通じて与えていました。このタイプの「元気づけ(cheering up)」は、躁的な仮の元気づけ(reassurance)や抑うつの否認とは区別する必要があります。というのは、躁的な仮の元気づけや抑うつの否認は、子どもの中の「偽りの自己(false self)」が発達するのを助長します。その場合子どもは、例えば自分の母親を元気づけるために自分を元気づけなくてはならないのです。しかしながら、先の例の母親は、何かしら違うことを彼女の子どもに示そうとしていたように私には思えます。それはすなわち、何ものか――乳房—―は失われたけれど、全てが失われたわけでなく、そして、空っぽに見えたところもまだまだ豊かで満ち満ちている、という彼女の共感的な理解です