うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

槿とススキと、内村鑑三と、【母親は子どものそばにやってきて、少しの間子どもと一緒にクマで遊びました。そうすると、子どもとその遊びはまた生き生きとしたものに戻ったのでした。】


 槿にススキを入れました!
昨夜のままでも、個人的には好きでしたが、やはりススキが入ると締まりますね!
花がもう一輪あっても良かったですね。


 夜勤前に歯科医院に行き、待合でまっていたら、いつも何気なく見ているものを、しっかり見たら(笑)
内村鑑三でした!藤木先生に亀井勝一郎と同時位に薦められましたが、亀井勝一郎より難しかったです....。
 アレクサンダー・テクニークの会場もキリスト教系なので、内村鑑三の本が沢山ありますが、その時のトラウマか?ビビりながら(笑)開いてしまいます。


 アップは昨日読んだ箇所ですが、本当に参考になります。乳幼児の観察という、Tavistock ClinicのEsther Bickが考案した方法は、非常に鋭く人間の原初的な関係や体験を見つめることが出来る優れた方法ではないでしょうか?全てがそれで解釈できるわけではないですが、重要なことを示唆してくれていると感じています。


 下記は、現場で一番大事にしたいことのように思いました。

『よちよち歩きの幼児が、クマのぬいぐるみで幸せそうに生き生きと一人遊びを母親の近くでしていました。しかしだんだんその子の遊びは少々自動的で生気のないものになっていきました。母親は子どものそばにやってきて、少しの間子どもと一緒にクマで遊びました。そうすると、子どもとその遊びはまた生き生きとしたものに戻ったのでした。』

 事務仕事も予定通り終わったので、夜勤に行って来ます。



Sheila Miller は子どもの生活の中の普通のありふれた出来事の例を次のように示しています。よちよち歩きの幼児が、クマのぬいぐるみで幸せそうに生き生きと一人遊びを母親の近くでしていました。しかしだんだんその子の遊びは少々自動的で生気のないものになっていきました。母親は子どものそばにやってきて、少しの間子どもと一緒にクマで遊びました。そうすると、子どもとその遊びはまた生き生きとしたものに戻ったのでした。赤ん坊を抑うつから引っぱり出すように見えるこれらの母親による入力(input)の例は、次のようなことを考えさせます。すなわち、入力、または心理学から借用したかなり不適当な言葉で言えば刺激ですが、抑うつ状態の子どもを普通レベルに引き上げるのではなくて、すでに普通レベルにある子どもを喜びや驚きや快感のレベルに連れていく働きをしている、普通の状況のことについてです。「入力」と「刺激」という言葉は不適当です。それらは人格の行動主義的機械モデルに基づいており、そのモデルは間主観性と相互作用についての研究の対象関係の含みを無視しているからです。しかしそれらは、私の目的にとってさしあたって、「包容」に対してつりあいをとる有用な概念です。「元気づけ」は対象関係の言葉であり、「刺激」は違います。「喜ばせる」「楽しませる」「一緒に遊ぶ」などはみな対象関係の言葉です。「歌いかける」も同じです。精神分析理論の思考のうちのいくつか、特に初期のFreud のいくらか還元主義的なモデルへの依拠に由来している思考は、母親の側の介入は赤ん坊の欲求を、充足させ、適応させ、合わせることだけにあるという考えを含んでいました。そのようなモデルにおいては、赤ん坊をより豊かにするという概念が存在していないように思われます。
 次に示すのは、母親によるまた別の2つの介入で、両方とも私が観察したものです。それらは赤ん坊にとって、侵入的な干渉というよりも、好奇心や興味や注意を刺激するものとして体験されました。これらは健常な乳幼児の観察する中でおこったことで、その観察はTavistock Clinic のEsther Bickが考案した方法に則って行われました(Bick 1966;Miller et.al.1989)。第一の例は、キャシーという生後3日の女の子で、十分に母乳を飲んだばかりで満足げでしたが、まだ目覚めていました。母親は赤ん坊を自分の顔の前に抱き上げ、優しく生き生きとした様子で話しかけました。この時、赤ん坊があれこれ頭を回して、このびっくりする物音の出所に集中しようとした様子を、明らかに見ることができました。この子は事態を理解ししようとし、考えようとしているように見えました。この子は新奇さにわずらわせれているようには見えず(新生児は母親の声を、子宮にいる時から韻律的な特徴をもとに聴き分けることを学んでいると報告されています(Trevarthen 1986))、むしろずいぶん興味を持ち、おそらく魅了すらされていたように見えました。これと同じ頃別の母親は、彼女の小さな赤ん坊が授乳の後ならこの体験に魅せられるように見えるけれども、授乳前だと過剰に刺激されていると感じるという観察を私に伝えました。第二の例は、マーティンという生後5ヵ月の男の子で、大体は欲しがったら授乳するというやり方で育てられていました。彼は、朝起きたら母親が彼の声に気づくまでほんのしばらく泣いたりのどを鳴らしたりし、そして母親が彼の部屋にやって来て抱き上げて授乳する、ということに慣れていました。つまり彼は、自分の声で母親を呼ぶことに慣れていたのです。これは母親の「適応」のよい例であり、母親を欲求満足者や緊張緩和者などとしてみる静水陸学理論と矛盾しません。しかしある時、子どもが十分に目覚める前に、その母親は子どもがもぞもぞ動いているのを聞き取ったので、目が覚めるまでベビーベッドの横で待っていました。彼は目を開けたとき、母親の顔を見て、ゆっくりと、驚きと、この上ない喜びを表しました。これらの例は単純に見えるかもしれません。しかしそれらは、適応と適合、受容的といった、受身的で機械的な概念から考えられるよりも多くのものが、母親的世話(mothering)にあることを思い出させるのに役立つかもしれません。確かに、新奇さや驚きや楽しみや喜びは、度を超していなければ、乳児の発達において、構造や繰り返しや親しみや子守歌といったより穏やかな対応物と同じくらいに、不可欠な役割を担います。ここで私が示唆したいのは、最近離乳させられて抑うつ的になってように見えるルーシーの母親は、ほそありふれた「再生する」タイプの働きかけをしていたということです。キャシーとマーティンの母親たちは、「注意を引く」と呼べるであろう働きかけをすることによって興味と驚きを生みだしていました。彼女らは、赤ん坊の注意を得ようと努めていましたが、それは赤ん坊が抑うつ状態だったからではなく、また赤ん坊がある特定の欲求をしたからでさえもありませんでした。母親たちがまず最初に動き、そして赤ん坊たちがこのコミュニケーションの機会に快を見いだしたように見えるのです。