うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんとアルザスワインと、【再生と投影同一化】


 今日は事務の日で、9時出勤でしたが、ショートさんが沢山おられたので、早番として入り、皆さんを送り出しさせて頂いてから、自宅で事務仕事していました。
 ねこさんはいつものように(笑)寝ていました。



 昨夜は、運営会議がありましたが、色々あり、中止になりそうでしたが、何とか時間前に解決して、無事?運営会議を行いました。
 少しだけご馳走を頂きながら、話をさせて頂きましたが、メニューにトラミーナのワイン(アルザス産)があったので、親分に頼んで飲ませて頂きました(一人だけ申し訳ありません....)。全部は飲めなかったので、持って帰り、先程、夕食時に、にしんの酢漬けで頂きました。
普通アルザスワインと言えば、リースリングかもしれませんが....。
 

 自分が北海道にいた時に、色々飲ませて頂き、ペルレが一番好きで、次がトラミーナだったので、思わず注文してしまいました(笑)。
 本当にワインが好きな方には、甘いのでしょうが、料理に合ってなんぼのもんだと思います。
フィレンツェで、毎夜ご馳走を食べていた時のワインは非常に安価なものでしたが、料理と合っていたので本当に美味しく感じました。イタリアから帰ってきて、高価なワインを買って飲んでみても全く美味しく感じなかったのは、料理と合っていなかっただけでしょうか?文化と言うものは本当に素晴らしいですが、中々その文化圏に生活していなければ、馴染めません。


 早めに出て、ファミマでコーヒーを飲みながら読んでいた箇所のアップです。
ちょっと難しい表現が出て来るので、何度も読み返しました。


患者が自分の状態の深刻さを知る助けとなるためには、治療者はこの切迫感を、自分のバランスや考える力を失うことなく感じなければならないのかもしれません。慢性的な精神病疾患や慢性的な抑うつや無気力の場合には、たとえそれが子どもであっても、抑うつや無気力や狂気になるそもそもの動機といったようなぜいたくな問いが扱われるよりはるか以前に、慢性性そのものに手をつけねばなりません。自閉症は、実際、ショックや心的苦痛からの防衛的逃避として始まるのかもしれません。

栄養失調あるいは飢餓状態は、空腹とは大きく異なった状態です。心の飢餓は、実際、精神的欲求とは異なっているかもしれません。末期の肺癌の人に、たばこを止めるように言っても、何の意味もありません。予防は、癒しとは別の次元のことであり、なぜひきこもるのかという理由に向けられた解釈は、ひきこもりの程度という危険な事実を無視しているかもしれません。それらは、また、患者がひきこもってしまっている広大で未知の心的空間の距離を定め、把握し、そしてそれを乗り越えるという重大な問題を無視しています。 
 以上、精神分析の治療過程がどのように進むと考えられてきたかという理論のいくつかに、簡単に触れました。精神分析を、正体を暴き明るみに出す活動とする初期の精神分析の考えは、ロビーの状態にはほとんど見当違いに思えました。成長や学習、能力のなさ、あるいは欠落といった考えの方が、こういった患者たちの治療上の問題をよりよく記述するように思います。学習についての精神分析理論には、次章で戻るつもりです。



再生と投影同一化
 まだ、さらなる理論的な問いが残っています。それは治療者の心に喚起された大変だという強力な感情は、患者によって送り込まれた結果として生じているのか、というものです。少なくとも、それらはKleinやBionによって記述された投影同一化によって引き起こされているのでしょうか。Bionは、あるタイプの投影同一化は乳児期には正常であり、非常に原初的な、おそらくはもっとも原初的なコミュニケーションを含んでいることを強調しました(Bion 1962:36)。ひきこもっている患者が私たちに大変だという思いを喚起するのは、その懸念を伝えるコミュニケーションであり、自分の受け入れがたい懸念という感情を排泄しているのでしょうか。あるいは、そうではないのでしょうか。それは、コミュニケーションをどう定義するかにかかっています。Gregory Batesonは、サインとシグナルというふたつのタイプのコミュニケーションを明確に区別しています。彼は、コミュニケーションの進化の重要な段階は、有機体が他者のムード・サインに対して「自動的に」に反応することをやめ、サインをシグナルとして認識できるようになったとき、すなわち、他の個体および自分自身のシグナルはシグナルにすぎず、信用できることもあれば、信用できないこともあり、誤って伝えられもすれば、否定もされ、拡張されたり、修正されたりするといったことがあるものだと認識できるようになったときに達成されるのではないかと考えています。

非言語的コミュニケションの原初形態としてのBionの投影同一化は、おそらくムード・サインとシグナルの中間のどこかにあるものに関係しているのでしょう。私は、患者のもっとも精神病的なところに見られれる症候のいくばくかは、より低いレベル、すなわちムード・サインのレベルで機能していることを示唆したいと思います。深くひきこもった患者について感じる懸念のいくらかは、部分的には、患者が自分では感じることができない絶望を強力に投影していることへの反応かもしれません。しかし、そういった懸念は、患者のなかのもっとも重篤な部分、放棄された何か、コミュニケーションを送ることすら全くできなくなっている何かに対する反応でもありえます。そういった患者は、破壊され、部分的にはシグナルを送ることをやめているのであり、かろうじてムード・サインのようなものが残っているのです。このような状況のこの側面に対する治療者の反応は、いわば、想像という積極的な行為によって、治療者自身のうちに呼び覚まされるのかもしれません。急性に体の病気が起こった人たちは、緊急処置と集中的な治療を受けるのが当たり前と考えられています。しかし、まず最初に、その状態が大変なものであると同定されねばなりません。子どもの重篤な心の病にふさわしい集中的な緊急処置の必要性を同定するために求められる情動認知は、時には、人間的なものを見、耳を傾けるといった受容する感覚に近いものではないかと思います。