うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

筍と、【発達研究における母親の要求し注意を喚起する機能に関する証拠】


7月は七夕ですが、まともに笹を飾っても面白くないと思い、朝のひーひー王子との散歩で小さな筍を頂いてきました。
なぜか?少し気が引き締まりました。


 パソコンの調子が悪く、自宅と事務所を昨夜から何度も往復していますが、先ほど本職の方に直していただきました。
助かりました。

 用事と用事の間で読んだ個所のアップですが、いかに乳幼児観察が重要なのかを知らせてくれる記述でした。

 遅番が、職員の都合で、夜勤になり、入浴介助など一段落ついて、自分の喘息の薬を取りに帰って来ましたので、この時間にアップです(笑)
 毎日、良いことも、そうでないことも沢山あります!
 残業になった職員さんと、遅番に入ってくれた親分に感謝します。ありがとうございました!
 体調不良の職員さんもお大事にして、早く復帰して下さいね!
みんさん楽しみにされていたのに、おっさんが代わりで(笑)可哀想(笑)

 
発達研究における母親の要求し注意を喚起する機能に関する証拠

 〜児童心理療法家と養護教諭は、注意散漫であったり注意の持続時間が短い子どもの知識や理解を詰め込もうとするのは、無益であることを知っています。このような子どもとの臨床の仕事は、注意が短時間しか続かないという問題と子どもが集中しにくいことから始めなければならないのです。実際のところ「組織すること」という言葉はとBrazelton とその共著者が述べていることを十分に表現するには、むしろ認知的すぎる言葉のように思えます。私はむしろ、赤ん坊を自分のものであると主張し(claim )、赤ん坊の注意を求と自分との関係に赤ん坊を呼び込み、いうなれば赤ん坊と心理学的存在の中に呼び込み、いうなれば赤ん坊を心理学的存在の中に呼び込む母親について考えたいと思います。
 もし精神分析理論を重篤な精神病の子どもの治療に役立てようとするならば、Brazelton が示した注意を喚起し拡充する活動という特定の領域について、私たちの理論を拡大する必要があるのかもしれない、と私は感じています。彼の数多くの観察によって、即興や、注意喚起や、拡充や、意図的に変化させることや、動きや、テーマをいろいろと変えてみることが示されましたが、それらの活動は、定義からして生きている対象からしか出てこないものなのです。これらの考えは、母親イメージに生命を吹き込むために必要であるように思われ、また母親が養い世話をし包容する機能がいかに重要で不可欠なものであったとしても、そのような機能以上のことをする人として見る助けになるように思われます。例えば、Brazelton は、どのようにして母親がある活動を他の活動へと変えていくのか、つまり、注意を喚起するやり方が子どもを動転させてしまうようなときにはなだめるように、子どもの関心がだれてきたときには注意を喚起するように、ということを示しています。


 母親は高い声で話し、注意を喚起する音と単純なリズムを使い、必要ならば速くします。母親の目は子どもの状態を適切に評価しながら輝いたり沈んだりしますが、これらはすべて子どもの注意を強め、母親の顔と2人の相互作用に注意の焦点をあわせ続けるためのものなのです……母親が子どもを軽くたたいたり撫でたりするときには、そのリズムと強さがなだめるのと同じように注意も喚起するようなものになるようにしています(つまり、1秒に2回のリズムを、ほとんどの母親はなだめかつ注意を喚起させるために使っており、ゆっくりのリズムは単になだめるために使っています)。



 またBrazeltonは、母親が赤ん坊の身体に触っている部分も、なだめることと注意を喚起することの二重の目的に役に立っていると指摘しています。「例えば、母親が子どもの足とお腹を撫でているのに子どもが静かだったら、子どもの注意を呼び覚まし、自分に注目してもらうために、母親はその手を子どもの胸にあげ、ついには頬まで持っていくでしょう。」母親は乳児に、どうやって自分の行動を抑え、コミュニケーション・システムに向かって水路づけしていくのかを教えているように見える、と彼は示唆しています。(Brazelton et ai.1974:65)。
 これらの記述において目立つのは、赤ん坊の注意に焦点を合わせるために、注意を喚起する活動がなだめる活動とおなじくらい主要なものであるということです。実際、まさにその二つの活動の交替、すなわち一つの活動がもう一つのもう一つの活動に取って代わることそのものが、明らかにそれ自体に焦点づけることなのです。また、そのイメージと言葉の多くが何と音楽的であるかということも印象的です。>赤ん坊は他の人間との接触へと誘われているように見えますが、それは赤ん坊自身の身体的または情緒的必要性を通じてだけではなく、そういった接触を持つことに赤ん坊自身が興味を持つからだけでもなく、多くは母親によって、導かれ、積極的に援助を受け、明らかに望まれているがゆえなのです。私はロビーの命綱の機能を表わすのに、再生という言葉を独自に選びましたが、おそらくこれに先立って、要求すること(claiming)について考える必要があるでしょう。それは、接触に引き込み、能動的だけれど配慮をもって呼びおこし名を与えるということです。それはどんな再生にも先立たねばならないもので、赤ん坊の誕生直後に母親が新生児のことを知るようになり、また自分の子どもであると主張する(ckaim)ときに生じることです。母親が生まれたばかりの赤ん坊、つまりほとんど応答しない時期の新生児をどのように扱うかについて、Brazeltonはさらに雄弁に記述しています。〜