うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

【有機体が心的生活を持ち、内外の源泉からそれに向かってやってくる刺激に対する神経生理学的な反応系の中に単に存在しているのではないと言われ得る限りにおいては、それは「世界」の中に住んでいて、そしてその世界はさまざまに構造化されているだろうというのが私たちの&

 

昨日は満月でした!
ホタルのピークは終わっていますが、昨日は沢山の車と人とで賑わっていました。
 明日はひーひー王子と静かに散歩ができるでしょうか?


 写りが悪いですが、満月でした。

明日は、カーグとバンドクラブの日なので、機材や画材を車に載せ込みました!


 今日は日中、事務仕事で入っていましたが、ショートの方の支援を半日させていただきました。
早目に出勤して、今日はマックでコーヒーを飲みながら本を読もうとしたら、アサリを持ってきたからと電話が入り、自転車で戻りました。暑かったので、二汗かきました(笑)アサリは小粒でしたが、美味しかったです!

 中途半端にしか読めませんでしたが、核心に迫ってきている感があったので、アップさせていただきました。

第9章 精神機能のパラメーター(媒介変数)としての次元性:自己愛組織との関係  
ナルド・メルツァー
生活−空間(life-space)に関しての見方の変更が理論として定式化されたのが、解釈作業の中に表現を見いだしてからずっと後のことであったことは、精神分析の方法に関して興味深いことである。それゆえに、理論の詳細な記述は、それが基づいている臨床経験が、自閉症児に関連したものである限り、ある程度読者にとってなじみのあるものになっているだろうことを目的として、本書の最後に配置されていることは明らかであろう。自閉症的でない患者における単純化された次元性の表れについては同じことは言えないし、修正される方が良いであろう。この目的の為に、エスター・ビック夫人の先駆的な論文から広く引用することが必要となるだろう。
 けれども、最初に、おそらく理論的な定式化を簡単に述べておくことは有益であろう。有機体が心的生活を持ち、内外の源泉からそれに向かってやってくる刺激に対する神経生理学的な反応系の中に単に存在しているのではないと言われ得る限りにおいては、それは「世界」の中に住んでいて、そしてその世界はさまざまに構造化されているだろうというのが私たちの観点である。おそらく、「世界」を四次元として、そして有機体の「生活−空間」(レヴィン)を構成するものとして考える見方は馴染みのあるものになっている、精神分析の視点からはこの生活−空間は、時間の次元をいどぷしている「空想の地理」(メルツァー)のさまざまな区画からなっていると言えそうである。この地理は通常は四つの区画に組織化される。すなわち、自己の内部、自己の外部、内的対象の内部、外的対象の内部、そしてこれらに時々、おそらくは常に、5番目の区画である、良い対象の引力の外の妄想体系という「どこでもないところ(nowhere)」が付け加えられるであろう。時間の次元はその一方で円環性から往復運動へそして最終的には固体にとっての「生活−空間」の直線的な時間へ、受胎から死への発達をもつものと認識することができる。 私たちは今や、空間の次元性もまた発達するものであること、すなわち『変形』(Heinemann 1967)の中で主に記述されているビオンの考えとたぶん基本的に一致する観点を知るようになっている。私たちがここで採用したいと望む観点は、ことによるとビオンのものよりももっと直接的に臨床的であり純粋に精神分析的である。というのは、彼は考えることと、考えについて考えることに、より関心を持っているのだが、私たちは主に知覚と経験における情緒性の源泉に注目しているからである。しかし、その二つの頂点が相補的であることはまったく確かなように思える。
  この世界の見方(私たちはこれを「世界観(Weltanschauung)」という遥かにもっと抽象的で哲学的な観念とこんどうしたくはない)における次元性の発達的観点は、自己と対象の分裂と理想化に近似した、分化と組織化の過程に今一度私たちの目を向けさせることになるだろう。クラインはこれを健康な発達における最初の決定的な段階であると考えた。これは、発達の内的論理的な必然性を記述している、マネー・カイルの見方と一致している。私たちには、分裂と理想化は、ほぼニ次元性が確立し三次元へと移行する間のどこかで、論理的な必然性として発生するように思える。これらのさまざまな水準での経験の組織化を描写することで、この見方を正当化できるかどうかを見てみよう。臨床の作業の中で実際にはどのような順序で起こってくるかというよりもむしろ発達の継時的な変化を辿ればそれは明確になってくるであろう。