うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

すろーじゃむワイナリーと、何気にキレイ! 何気にステキ!と、【私の主張は、この還元の目的は、経験からその意味をなくしてしまい、象徴的な表現を不可能にし、それゆえ記憶に使用できるやり方での内的なコミュニケーションに利用できなくしてしまうというものである。】


 今日は、早番でしたが、早めに出て約30分、うたたね横のファミマで、いつものように本を読みました。
ファミマの店員さんも、袋は要りませんね!と慣れています(笑)
 渥美の利用者さんのお迎えも早目に出て、すろーじゃむの畑を見に行きましたら、ブドウが知らぬ間に(笑)結実していました!
7個くらいあります。直ぐに北海道の友人(苗を送ってくれた)に連絡したら、北海道ではまだ花も咲いていないとのことでした。
 そういえば、北海道では7月に入ってからでしたね。
鳥やハクビシンに盗られないように、対策をしないといけません。


 朝は海水浴場を約3km歩き、午後からは、芦が池を5km歩きました!
もう既に10,000歩以上歩いています。





 暑くて、ゆっくり散歩したので、色んなものが目に入ってきました!
何気にキレイだったり、ステキだったりでした!


 下記は、早朝にファミマで呼んでいた個所です。


とても印象的であったのは、その経験を、さまざまな形の無意味な寄せ詰め、おそらく幾何学的な形として理解することのみ適しているものに還元してしまう、その系統だったやり方である。私の主張は、この還元の目的は、経験からその意味をなくしてしまい、象徴的な表現を不可能にし、それゆえ記憶に使用できるやり方での内的なコミュニケーションに利用できなくしてしまうというものである。ここで私たちは、フロイトが抑圧によって引き起こされる健忘について定式化したものとはまったく異なる心的現象のカテゴリーを含む健忘理論を提起していると言えるかもしれない。それは、ジョナサン(第7章)の場合のように、緊張病患者に見られる、文というよりもバラバラの語によってのみつながりを見出だせるような記憶やイメージのバラバラの断片が点在している空虚な時空の中で過去からの広大な荒野を窓を開けるかもしれない。〜  


1920年までにメラニー・クラインは、幼い患者たちから、彼らが世界としての母親の身体の内部、すなわち「世界」の原型を空想の中で探求したいという知識への渇望によってしばしば駆られていることを知らされていたようである。フロイトは、真理の探求が、患者たちの人生の中で重要な役割を演じる心の特質であるとは考えなかったようである。したがって彼は発達に及ぼすその意義を低く見積もったのである。彼は子どもたちの「性の探求」についてこそ語っているが、認識愛本能はイドについての枯れの概念化の中で占める役割はなかった。これは批判のように見えるかもしれないが、むしろ、成人の分析と子どもの分析との間のアプローチの違いを強調するために述べている。前者は言わば上の方から、パーソナリティの病理的な側面とそれらの転移としての現れを利用しながら作業が進められていくのだが、子どもの分析は発達過程と調和させながら下の方からよりもっと探索的に作業が進むのである。これは無論一般化であり、実践においてはこの二つはどのような治療においても重なり合う。しかしそれでも、フロイトは、事実に対して忠実であったので、先入観として抱かれた着想の同語反復の足枷と格闘しながら、成人の神経症者の中に、心的苦痛を最小化しようとする苦闘の名残が作動していることを見るのは当然であった。その観点からするとあらゆる防衛機制は嘘なのである。しかし、防衛機制が、子どもの発達の中で調整装置として作動していることをみてとると、大変異なった意義が現れてくる。
 それがどういうことかというと、このような自閉症児との探求において、私たちが見出すことができるのは、心的苦痛に対する格闘がその優勢さを失い始めるのは、一般的に子どもが自己愛的な引き籠もりから良い対象を求めることへと戻っていくことに相応するのだが、その時点で、以前には防衛のために用いられていたその同じ機制が今や発達のために使用されているのが観察されると言うことである。


私の主張は、強迫機制は、真理の探求のために用いられているのであれば、科学的な精神の資質に豊かに貢献するということである。にもかかわらず、しかしながら、それは万能感の基礎の上に作動しているのも確かである。「願望からその充足へと跳躍する省略的な空想」と私が呼んだものは、幻覚がそうするようには妄想を作り上げはしない。それが「命令を下しすべての微笑が止んだ時」、それは嫉妬からかもしれないが、愛情と愛情対象が花開くように、状況をコントロールする意図を持って、なされたのかもしれないのである。しかし、それはその万能性の中で見込み違いを冒してしまう。その愛情対象は花開かず枯れてしまい、花は絵に描かれて死に、実験動物は絶えてしまい、凍結された切片は干からびてしまう。実験科学はこのようにして真に悲劇的である。 〜


〜記述科学はもっと寛大で、忍耐強く、信頼に満ちている。私は、精神分析が実験科学たり得るということを経験から知っている。私は、それが記述的なものに成り得ることを望んでいるのである。〜